2015 2/24 百里基地
懐かしい機体が百里基地に飛来していた
YS-11
YS-11といえば、小学校の頃、羽田空港に見学に行ったとき、東亜国内航空の旅客機が独特のキーンというエンジン音を響かせ離陸していったのを
思い出す。この飛行機には乗ったことがない。もう旅客機としては退役してるし・・自衛隊の体験搭乗でも当たらなければ乗る機会もないだろう
初めて乗ったジェット旅客機は日本航空のダグラスDC-8、4発だった。小学校の頃、大阪の万国博覧会に行くのに(日帰りで)羽田から乗った。
帰りはボーイング727だったなあ。
YS-11は小さい頃、よく近くの自衛隊の基地にも飛んできた。思い出深い機体である。
日本の戦後の旅客機を語る上でこの機体なしには語れない・・
いろいろな記事から抜粋・・
YS-11は、日本航空機製造が製造した双発ターボプロップエンジン方式の旅客機。第二次世界大戦後に初めて日本のメーカーが開発した旅客機である。
長期にわたり運用されたが、2006年をもって日本においての旅客機用途での運航を終了し、また、2011年(平成23年)に海上保安庁で使われていた機体も退役しているが、それ以外の用途では自衛隊で輸送機として運用されている。
本機の設計は、三式戦闘機飛燕設計の土井武夫、零戦設計の堀越二郎、紫電改設計の菊原静男、一式戦闘機「隼」設計の太田稔、秋水を手がけた木村秀政といった、日本を代表する航空技術者の手によって行われた。
日本は第二次世界大戦の終戦まで、世界でも有数の航空機製造技術を持っていたが、敗戦後、米英を中心とする連合国軍(GHQ)の占領政策で航空機の設計・開発・製作・運用といった航空に関する諸活動への関与を一時期禁じられたため、航空機製造技術の基盤が失われてしまっており、開発は困難を極めた。
製造は新三菱重工、川崎航空機、富士重工業、新明和工業、日本飛行機、昭和飛行機工業、住友精密工業の7社が分担し、最終組み立てを三菱の小牧工場が担当した。機体の設計者たちは戦前に軍用機造りに携わってはいたが、旅客機の設計をしたことがない(それどころか乗ったこともない)者がほとんどであった
日本の航空業界側は「日本の空は日本の翼で」という意識のもと、改修に改修を重ね、機体を実用水準に高めた
エンジンは耐空証明の取得に困難が予想されたため、自国での開発を諦めた。方式としては、当時主流になりつつあったターボプロップエンジンを使用し、イギリスのロールス・ロイス製ダート 10を採用、プロペラはダウティ・ロートル製の4翅、全脚のタイヤはグッドイヤー社製であった。
1962(昭和37)年に初飛行し、その2年後の1964(昭和39年)に国内線に就航。
当時国内で主流だった1200m級の滑走路での離着陸が可能で、エンジンが停止しても滑空できるほど、低速での安定性が優れていた上、燃費が良く、頻繁な離着陸にも耐えられる頑丈な構造だったため、地方間コミューター機として活躍した。
また、アメリカや東南アジアへも輸出した実績もある。
しかし、高性能の機体とは裏腹に、騒音や振動が激しく、旅客機としては好ましくなかった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/be/20256d16aacbb1ab818fa5b64a5bf29f.jpg)
でも自分が知っているYS-11と、エンジンナセルの形状、エンジン音、プロペラが4枚なのに3枚・・と異なる
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/03/9d39be70d1e19fc92f3d7bf1fd75ada0.jpg)
調べてみると・・スーパーYSという機体
スーパーYS:日本飛行機が川崎重工業と石川島播磨重工業の協力を受けて開発した機体。
エンジンをP-2Jで使用されていたT64-IHI-10Eを-10Jへと改修・換装し、プロペラをハミルトン・スタンダードの3枚ブレードに交換した。
この改修により、上昇限界高度が9,000mに向上し、航続距離も延長された。他のYSと飛行騒音が決定的に違うために現存するYSでもかなりの異彩を放っている機である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/59/5a7af6036034984396fb4e4c22cf719f.jpg)
航空自衛隊で使用している機体は
YS-11EA 2機 電子戦訓練支援機。YS-11Eから改造である。
YS-11EB 4機 電子測定機(電子情報収集機)。1機がYS-11C、1機がYS-11P、2機がYS-11EL型から改造される。機体上下に二つずつのドームを付けているのが外見上の特徴。
なので YS-11EAかな 入間基地の所属
懐かしい機体が百里基地に飛来していた
YS-11
YS-11といえば、小学校の頃、羽田空港に見学に行ったとき、東亜国内航空の旅客機が独特のキーンというエンジン音を響かせ離陸していったのを
思い出す。この飛行機には乗ったことがない。もう旅客機としては退役してるし・・自衛隊の体験搭乗でも当たらなければ乗る機会もないだろう
初めて乗ったジェット旅客機は日本航空のダグラスDC-8、4発だった。小学校の頃、大阪の万国博覧会に行くのに(日帰りで)羽田から乗った。
帰りはボーイング727だったなあ。
YS-11は小さい頃、よく近くの自衛隊の基地にも飛んできた。思い出深い機体である。
日本の戦後の旅客機を語る上でこの機体なしには語れない・・
いろいろな記事から抜粋・・
YS-11は、日本航空機製造が製造した双発ターボプロップエンジン方式の旅客機。第二次世界大戦後に初めて日本のメーカーが開発した旅客機である。
長期にわたり運用されたが、2006年をもって日本においての旅客機用途での運航を終了し、また、2011年(平成23年)に海上保安庁で使われていた機体も退役しているが、それ以外の用途では自衛隊で輸送機として運用されている。
本機の設計は、三式戦闘機飛燕設計の土井武夫、零戦設計の堀越二郎、紫電改設計の菊原静男、一式戦闘機「隼」設計の太田稔、秋水を手がけた木村秀政といった、日本を代表する航空技術者の手によって行われた。
日本は第二次世界大戦の終戦まで、世界でも有数の航空機製造技術を持っていたが、敗戦後、米英を中心とする連合国軍(GHQ)の占領政策で航空機の設計・開発・製作・運用といった航空に関する諸活動への関与を一時期禁じられたため、航空機製造技術の基盤が失われてしまっており、開発は困難を極めた。
製造は新三菱重工、川崎航空機、富士重工業、新明和工業、日本飛行機、昭和飛行機工業、住友精密工業の7社が分担し、最終組み立てを三菱の小牧工場が担当した。機体の設計者たちは戦前に軍用機造りに携わってはいたが、旅客機の設計をしたことがない(それどころか乗ったこともない)者がほとんどであった
日本の航空業界側は「日本の空は日本の翼で」という意識のもと、改修に改修を重ね、機体を実用水準に高めた
エンジンは耐空証明の取得に困難が予想されたため、自国での開発を諦めた。方式としては、当時主流になりつつあったターボプロップエンジンを使用し、イギリスのロールス・ロイス製ダート 10を採用、プロペラはダウティ・ロートル製の4翅、全脚のタイヤはグッドイヤー社製であった。
1962(昭和37)年に初飛行し、その2年後の1964(昭和39年)に国内線に就航。
当時国内で主流だった1200m級の滑走路での離着陸が可能で、エンジンが停止しても滑空できるほど、低速での安定性が優れていた上、燃費が良く、頻繁な離着陸にも耐えられる頑丈な構造だったため、地方間コミューター機として活躍した。
また、アメリカや東南アジアへも輸出した実績もある。
しかし、高性能の機体とは裏腹に、騒音や振動が激しく、旅客機としては好ましくなかった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/be/20256d16aacbb1ab818fa5b64a5bf29f.jpg)
でも自分が知っているYS-11と、エンジンナセルの形状、エンジン音、プロペラが4枚なのに3枚・・と異なる
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/03/9d39be70d1e19fc92f3d7bf1fd75ada0.jpg)
調べてみると・・スーパーYSという機体
スーパーYS:日本飛行機が川崎重工業と石川島播磨重工業の協力を受けて開発した機体。
エンジンをP-2Jで使用されていたT64-IHI-10Eを-10Jへと改修・換装し、プロペラをハミルトン・スタンダードの3枚ブレードに交換した。
この改修により、上昇限界高度が9,000mに向上し、航続距離も延長された。他のYSと飛行騒音が決定的に違うために現存するYSでもかなりの異彩を放っている機である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/59/5a7af6036034984396fb4e4c22cf719f.jpg)
航空自衛隊で使用している機体は
YS-11EA 2機 電子戦訓練支援機。YS-11Eから改造である。
YS-11EB 4機 電子測定機(電子情報収集機)。1機がYS-11C、1機がYS-11P、2機がYS-11EL型から改造される。機体上下に二つずつのドームを付けているのが外見上の特徴。
なので YS-11EAかな 入間基地の所属
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