徒然なる写真日記

趣味に関する事や、日々の中での出来事を脈絡もなく貼り付けていく絵日記帳ブログです

遠い先祖は全盛期の足尾銅山にいた

2016-09-01 23:11:16 | 足尾/足尾銅山
父が脳梗塞で入院してから3か月経った。一時期、特養ホームに移動したが、体調がすぐれず再度入院。点滴をしたりして養生しているが
リハビリもままならない。高齢なせいもあるがいろいろ入院生活が長く寝たきりになると弊害も出てくる・・
そのせいでもないが最近は出不精になったしブログの更新も気が乗らない。

祖母と父は足尾で生まれた。祖父は三春から婿養子に入ったが、昭和20年に亡くなっているので会ったことはない。
それより先の先祖の事は家系図などないので判らないし、詳しくは聞いたこともなかった。
今年の5月ごろ、とある足尾研究をされている方のブログの中に明治時代の先祖らしき記事を見つけた。
その文献をメールで問い合わせたところ親切にもいくつかの本の紹介をしてくれた。
その記事の引用は、足尾の龍蔵寺の住職を務め、かつ足尾の教育委員長をされた方が書かれた本で、すでにご本人は亡くなられており、出版社の話では既に絶版ということであったが、何とか図書館の蔵書から検索し借りることができた。 それによると遠いご先祖様は兵庫県の生野町、生野銀山の出身で、明治17年、一家を挙げて古河市兵衛の開いた足尾銅山に来山し、5人の息子は抗夫として本山と小滝に住み、いずれも飯場頭となった。 とある。恐らくこの1人が曽祖父に当たるのだろう。
NHKのファミリーストーリーという番組があるが著名人の先祖をスタッフが調べてくれる・・
なかなかできるものではない。現在の生活、仕事の事、子供の教育や親の事、将来のことなど・・過去の先祖の事を顧みることなどお盆の時以外なかなか余裕がない。しかしこの本がきっかけでいろいろ過去を知りたい欲求が湧いてきた。もう当時の事・・明治から大正、足尾の祖先が足尾銅山の草創期から隆盛期にかけての時代、また昭和の初めまでの銅山繁栄と衰退までどのように暮らしてきたかという事を知りえる親の兄弟も親戚も既にいない。
私が初めて足尾に行ったのは昭和45年11月、足尾にある先祖代々の墓から祖父の骨を宇都宮の墓に移した時だった・・
その後、車の免許を取ってから何回か銅山観光や父や叔母の昔の思い出の地に訪れたが・・こここ28年近く訪れていなかった。

昔の足尾はどのような町だったのだろう
明治の足尾の写真集をネットで購入した

足尾銅山「小野崎一徳写真帖」

足尾銅山400年の歴史のなか、足尾銅山の専属写真家であった小野崎一徳氏(1861-1929)が残した明治・大正時代の250点余の古写真で
日本の代表的「産業遺産」を検証する


当時の銅山の内外、精棟施設、工場施設や、そこで働く人々や当時の街並みの様子が、
250ページを超えるボリュームで、文章とともに詳しく紹介されている。  
小野崎一徳氏が撮影した当時の写真は1000枚近くに上るという事でこれはその1部である
私の実家にある明治~大正時代と思われる希少な古写真の1部や父が卒業した足尾の尋常小学校のアルバムにも小野崎写真館のロゴが
入っているのをつい最近発見した。



そしてこちらもネットで購入
立松和平氏著 「恩寵の谷」

この本は昔、実家にも有って、何でも東京の叔母さんが祖父の事を書いた様な作品だと言っていたらしい。

明治期に入っての足尾銅山再開発草創期の鉱山を舞台にした作品。
古河鉱業の誘いに導かれて兵庫県生野銀山からやって来た、坑夫取立免状を得たばかりの三人の若い坑夫。彼らは地中に宝を掘り当てるべく懸命に掘り進み、遂に無尽蔵の銅の鉱脈を発見する。日本一の銅山として世界に名を轟かす足尾。だがやがて、鉱毒は野に満ち、彼らの肺は粉塵に侵されて行く…。明治期足尾銅山の歴史、地中に夢を託した若い坑夫の生き方を描く畢生の大作。

立松さんの曽祖父は明治時代に兵庫県の生野銀山から足尾に移ってきた抗夫で、その曽祖父をモデルにしたフィクションともノンフィクションともいえる作品で、松木の大火、洪水による鉱毒事件、足尾暴動、抗長 木村長兵衛の奮闘と死 等歴史的事実を織り込みながら物語は展開していく。
また初期には緑したたる谷で街らしい街もなかった足尾が、みるみるうちに開発され街が広がるとともに、山林が荒廃していく様子も描かれている。
幼い頃の立松さんは、親戚の住んでいた足尾を度々訪れていたらしい。 

この本は自分の先祖にも出身が共通しているという事で当時の様子を想像しながら読み終えた


まだ足尾銅山関連の書籍はたくさんあるので、図書館に行っては借りてきて読んでいる。 まだ始まったばかりだ


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