徒然なる写真日記

趣味に関する事や、日々の中での出来事を脈絡もなく貼り付けていく絵日記帳ブログです

2011 京都紅葉  奥嵯峨野 祇王寺

2012-02-15 23:39:23 | 京都散歩
祇王寺
奥嵯峨 「平家物語」の悲恋の尼寺


12/10
拝観料:300円
祇王寺へは、天龍寺からだと歩くと30分位かかるのだろうか、自転車だと北西に10分くらい。嵐山のメインストリートから外れ、竹林の小径を過ぎ・・

ニ尊院から奥嵯峨野方向へ向ってしばらくのところ。道の左端に滝口寺、壇林寺、祇王寺の名を刻んだそれぞれの石柱が立っている。
西に坂を登っていくと祇王寺。小倉山の麓でカエデと美しい竹林に覆われて薄暗い。
左側に緩やかな石段を登った奥にある寺も、「平家物語」ゆかりの滝口寺。
紅葉は過渡期を過ぎたか今年は色づきがよくなかったのか写真で見たような赤は出ていなかったが・・


竹やぶが途切れてひっそりとした小さな門を入ると
そこが「平家物語」の悲恋の尼寺として知られる「祇王寺」です
茅葺の門の屋根に紅葉の落葉


こちらの門は閉まっている 嵯峨菊の鉢があった


竹と楓に囲まれたささやかな草庵には慎ましやかな苔の庭があり、紅葉がうっすら敷き詰められて季節の絨毯を織り成し旅情を誘う。








平家物語の巻頭に、祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。沙羅雙樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢の如し。・・・・・・・・・・・・と美しく書き出してあるが、更に読み進むと祗王祗女の事が出て来る。これは平氏全盛の頃、平清盛と二人の女性の哀れな物語である。

この頃、都に聞えた白拍子の上手に祗王、祗女と言う姉妹があった。近江の国野洲江辺庄の生れ。父九郎時定は、江辺庄の庄司であったが罪あって、北陸に流されたので、母と共に京都に出て、白拍子となり、(白拍子とは?平安時代後期に流行した歌舞の一つで当世風の今様(いまよう)をいう。また、それを歌い舞うことを職業とする物腰柔らかな舞をみせる女性を含めて白拍子と言うようになっている。本来の意味は声明の拍子の名称で、普通の拍子とか伴奏を伴わないということ。)
祇王18歳の時である。

都へ出て来た祇王の歌と舞いの見事さは、たちまち評判となり、当時の最高権力者である平清盛の知るところとなる。ある日、清盛に呼ばれた祇王は御前で舞うこととなる。清盛は、祇王の見事で気品のある舞い、そして何よりもその美貌に心を奪われ、直ちに自分の別荘・西八条殿に住まわせ寵愛したのである。

姉の祗王が清盛の寵愛を得て、妹祗女も有名となり、毎月百石百貫の手当もあり、母や妹ともども安隠に暮らしていた。

ところがここに加賀の国(石川県)の者で、仏御前と呼ばれる16歳の白拍子の上手が現われて清盛の西八条の館に行き、舞をお目にかけたいと申し出た。清盛は、神とも言え、仏とも言え、祗王があらんずる所へは叶うまじきぞ、とうとうまかり出でよと門前払いをしたが、祗王が、やさしく取りなしたので、呼び入れて、今様を歌わせることにした。仏御前は、
君を初めて見る折は 千代も歴ぬべし姫小松 
御前の池なる亀岡に 鶴こそ群れいて遊ぶめれ
と繰り返し三べん歌ったが、声も節も頗る上手だったから、清盛は、たちまち心動かして仏御前に心を移してしまい、祇王を屋敷から出ていくように言い出す
仏御前は、それは本意ではない「舞いをお見せしたかっただけ、自分が帰る」と願い出たが聞き入れられることではなかった。あろうことか清盛は、「仏よ、祇王に遠慮するな。お前がそのように言うのは、祇王がいるからだな」と祇王を屋敷から追い出してしまった
昨日までの寵愛は何処へやら、祗王は館を追い出されることになった。せめてもの忘形見にと、
萌えいづるも 枯るるも同じ 野辺の草
いずれか秋にあわではつべき
と障子に書き残して去って行く。

あくる春になって清盛は非情にも、仏が退屈しているから、舞を舞って仏をなぐさめよと祇王の家に使者をよこす。、祗王はもとより行く気は無かったが、清盛の権勢と母の哀願に抗しかね、館に行って、 仏もむかしは凡夫なり われらも遂には仏なり いずれも仏性具せる身を 隔つるのみこそ悲しけれ
と歌い舞った。並居る諸臣も、涙を絞ったと言う。
元々、祇王に気のない清盛は、一舞いすると帰してしまう。この清盛の無神経さ、悔しさ、悲しさに祇王は自害しようとするが母の必死の説得で自害は断念するも、世を捨て仏門に入るのである。
祗王「かくて都にあるならば、又うき目を見むづらん、今は都を外に出でん」とて、祗王二十一、祗女十九、母刀自四十五の三人、髪を剃って尼となり、嵯峨の山里、今の「祇王寺」の地に世を捨て、仏門に入る。

時が経ち、秋のある夜のこと。祇王らが住む庵の表戸を叩く者がいた。恐る恐る表戸を少し開け、隙間から覗くと、そこには白い衣で覆った仏御前の姿があった。仏御前は涙ながらに「もともとは、舞いを認めてもらいたい一心で清盛様の前で舞ったもの。心ならずも祇王様を追い出しことになり、悔やまれます」と、切々と自分のとった愚かな行為を憂いた話をした後、覆っていた白衣を脱ぎ捨てる。そこには髪を剃った仏御前。仏道に入ろうと決意してやって来たのである。この姿をみた祇王は、「まだ17歳の若さで現世を捨て、往生を願うは真の大道心」と快く庵へ迎え入れ、その後、朝晩の念仏を欠かさず過ごした4尼は往生したと書かれている。「パンフレットより」


「萌えいずるも枯れるも同じ野辺の花、何れか秋に合ではつべし」清盛の寵愛を仏御前に奪われた祇女の歌。




小さな境内ではあるが草(藁葺き)屋根の本堂
本堂には本尊大日如来の他、祇王をはじめ母の刀自(とじ)、妹の祇女(ぎにょ)、仏御前、平清盛の木像が安置されている。








吉野窓




緑の苔に散り積もる紅葉




本堂の前にある手水鉢。舞い散る赤や黄の葉が水に浮かぶ


本堂の前に広がる庭園。苔の緑と散り積もった紅葉のコントラストが美しい
日が射してないのが残念


宝筐印塔は向かって左が、祇王 祇女、母:刀自の墓
右の五輪塔は。清盛公の供養塔、いずれも鎌倉時代の作、重要参考品とされている


平安の昔の哀しくも憐れな祇王、祇女の物語・・
敷き紅葉の庭を散策しながら、侘び寂び、哀愁に浸るのであった


まだ日没までに時間があるので 次は大覚寺の広沢池に・・

「パンフレットより」
現在の祇王寺は、昔の往生院の境内である。
往生院は法然上人の門弟良鎮に依って創められたと伝えられ、
山上山下に亘って広い地域を占めていたが、いつの間にか荒廃して、
ささやかな尼寺として残り、後に祇王寺と呼ばれる様になった
祇王寺墓地入口にある碑には
「妓王妓女仏刀自の旧跡明和八年辛卯正当六百年忌、 往生院現住、法専建之」
とあって、此の碑の右側に「性如禅尼承安二年(一一七二年)壬辰八年十五日寂」
と刻んであるのは、祗王の事らしい。
安永の祇王寺は明治初年になって、廃寺となり残った墓と木像は、
旧地頭大覚寺によって保管された。
大覚寺門跡楠玉諦師は、これを惜しみ、再建を計画していた時に、明治二十八年、
元の京都府知事北垣国道氏が、祗王の話を聞き、嵯峨にある別荘の一棟を寄付され、此が現在の祇王寺の建物である。
これらの関係で、祇王寺は大覚寺の塔頭で真言宗である。


 




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