第6師団歩兵第十三聯隊(熊本)
【歩兵第十三聯隊(右翼隊右第一線)の戦闘〈地図4参照)】
歩兵第十三聯隊は右翼隊の右第一線となり右から第二大隊、第一大隊を第一線として本道西側地区を歩兵第四十七聯隊の右に接して中華門に向かい攻撃した。この正面は中華門の正面陣地で中国軍が最も堅く守備した所なので、その抵抗は極めて頑強で、第五中隊長・浜園忠夫大尉負傷、第五中隊に代わって第一線に出た第八中隊長・中村進中尉戦死、第七中隊長・萩平昌之中尉重傷等、この日の戦闘で百数十人の損害が続出した。聯隊長は予備隊の第三大隊を第一線に投入、第二大隊を後方に下げ、配属の軽装甲車中隊を第三大隊の戦闘に協力させた。地形が複雑に起伏しているため、山砲や野砲中隊はやむなく分割使用した。
装甲車中隊の協力を得て第三大隊はついに雨花台を占領、左第一線第一大敵も第四中隊長・松岡政人中尉が白壁高地(三家店東側)攻撃で戦死したが同高地を奪取し、聯隊主力は雨花台の台端で中華門に対する攻撃を準備した。
独立軽装甲車第二中隊本部附曹長(のち中尉)藤田清氏は戦闘の状況を次のように回想している。
「中隊は、中華門正面の水濠の線に進出し友軍歩兵の戦闘を支援したが、橋が破壊せられて前進できない。中華門の土嚢除去、架橋作業には数日を要するので中隊はひとまず雨花台北麓の兵技専門学校(兵工廠?)に宿営することになった。ここは中国軍の死体収容所か、病院の跡であったらしい。校舎前の水を抜いたプールのような凹所に焼け焦げた屍体が四、五百残されていた。これは中国軍が退却の際に残したものではないかと思われた。」
また、坂井歩兵第十一旅団長の手記(『熊本兵団史』)によれば、「中国軍を駆逐後、トーチカを点検すると扉に鎖を巻き施錠してある。守兵にとっては絶対の墓場であり、このトーチカに追い込まれて死守した戦士の心境に想いを致すとき同情を禁じ得なかった」とある。
偕行社『南京戦史』P.135
【二、中華門占領(要図25参照)】
歩兵第十三聯隊は、中華門に至る橋梁が破壊されていて午後に至っても外濠を渡ることができない。第一隊長(大隊長・十時和彦中佐)配属の工兵第二中隊の軽渡橋架設特別班が、外濠に仮橋を架設したのは十二日十四時三十分である。ようやく攻撃路が出来て、まず城門爆破の工兵特別班が橋を渡り、続いて第二中隊がこれを渡って城壁にたどりつき、工兵の爆破作業によって城門左側城壁の突撃路を補足して城壁を登ったのは十三日一時である。工兵隊が土嚢を除去して城門を開放したのは三時三十分であった。
偕行社『南京戦史』P.219
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