土下座強要派の方が、その【根拠】としているものの一つに《【偕行社】の【お詫び】》というのがあります。最近でもブログの記事やTwitterでのコメントでも度々見かけることがあります。
実はこれは根拠としては、もう終わっています。【根拠】としては既に成り立たなくなっています。
この既に終わっている話を知らない方、この事実を受け入れられない土下座強要派の皆様が、今だに【頼み】として居られるて拡散されて居られているようです。
先ずは【お詫びの内容】というのは、
偕行社(旧陸軍将校の親睦団体)の『偕行』編集部(執筆責任者 加登川幸太郎:南京戦不参加、当時陸軍大学三回生)による「証言による南京戦史」(最終回)<その総括的考察>でなされた、
引用《
畝本君の三千乃六千、板倉氏の一万三千、共に両氏それぞれの推定概数であって、当編集部としてこれに異論を立てる余地は何もない。これを併記して本稿の結論とする。
中国国民に深く詫びる
重ねて言う。一万六千人はもちろん、少なくとも三千人とは途方もなく大きな数である。
》
です。
この文面を根拠に、【偕行社】の旧日本軍人会・親睦団体でもある【立場】を借用して、軍人会ですら【南京大虐殺】又は【中国での非道行為を認めた】とされることが多いようである。ネットで検索を掛ければ【共産党】の方か支援者かのブログなどで、【ゆう 南京事件─日中戦争 小さな資料集】から引用したものを複数の方が拡散され続けていることが見かけられます。
そう言った方々は、その責任執筆者 加登川幸太郎氏や「偕行」編集担当常務理事 高橋登志郎氏の強い《政治的》意向が反映していたものを不承知又は承知の上で意図を持って拡散されている現状です。
この【総括によるお詫びが出る前出た後】の時系列を表示してみる。
1982年(昭和57年)6月 教科書【誤】報道 朝日新聞(華北侵略を華北進出へ検定で訂正させたという誤報)
1984年(昭和59年)4月 「証言による南京戦史」が刊行開始(偕行社機関誌『偕行』) 一年間連載。
1984年(昭和59年)11月 角良晴氏による「支那事変当初六ヵ月間の戦闘」と題した投稿があり、高橋登志郎編集長のやり取りが始まる。
1985年(昭和60年)2月 「証言による南京戦史」(最終回)<その総括的考察>(『偕行』3月号) 角証言を註釈無しに使用して加登川がお詫び表明
1985年(昭和60年)6月 【番外】 高橋登志郎の「南京戦史の総括的考察に反対された方へのお答え」への反対者に対する反論。
1986年(昭和61年)1月 角良晴氏の意向で高橋登志郎編集長との間だけで秘匿されていた【角証言】が板倉氏等に公開される。
1987年(昭和62年)12月 『偕行』1938年1月号 『角証言』発表
1988年(昭和62年)12月 『月曜評論』880号、881号で、角証言を使った藤原彰への反論
1989年(昭和63年)11月 『南京戦史』発行
2012年(平成24年)7月 『偕行』8月号/特集 いわゆる「南京事件」について/南京虐殺は戦時プロパガンダだった。発表
このような流れで、現代に至っている。
歴史というのはこういう時系列は必要です。
この時系列を見て頂くと、そもそも「証言による南京戦史」の刊行自体が、教科書問題という新聞のフェイクニュースから端を発していること、証言の収集と編纂の中で、連載末に角良晴氏(当時病気療養中)の投稿があり、編集員長高橋登志郎との面談及びやり取りが、他の編集員と公開されないまま加登川氏にのみ知らされて(少なくとも板倉氏は知らされていなかった)、翌年2月(3ヵ月後)の総括に引用されて【お詫び】の文言に繋がったことが判ります。
【総括・お詫び】について、板倉由明氏によるとその著作『本当はこうだった南京事件』のP.285の【第八章 角良晴証言の全貌】で反論と批判が為されています。
その内容からは、加登川幸太郎の【お詫び】に関する比重は、主に角良晴の証言・投稿内容を受けたものであったと考えられます。
それを引用すると
引用《
その際も書いたことだが、この証言と書簡は長らく南京戦史編集委員にも秘密にされており、筆者が実見したものは二年も後の昭和六十一年一月であった。その理由は角氏が【自分の証言だけが南京大虐殺の真相であり、特に軍司令部での出来事を知る者は松井・長・自分のみ、絶対に公開を禁ずる」と編集部に強く釘を刺していたことによる。角氏が亡くなられて一年でやっと我々の目に触れ、三年目にようやく発表されたことで一般に論評可能になったのである。その意味では、これが勝手な憶測によって大虐殺派に悪用されたことに対する責任の一端は、公開が遅れた『南京戦史』編集部、その一部を註釈なしで「総括」に引用(『偕行』昭和六十年三月号)した筆者・加登川幸太郎氏も負わなければならない。
》
本来、角良晴証言・投稿は、再度板倉由明氏の文献から引用すると要旨は、次の如くとなる。
引用《
ではそれほど重要視される角証言とは、どんな内容であろうか。角の書簡数通(昭和五十八年末より)及び編集長・高橋登志郎氏との問答(昭和五十九年十一月)から、簡単に要約してみよう。
①南京大虐殺は確かにあった。それは自分の証言するこれ一つだけで、他はすべてウソである。絶対に他言してはならない。
②日本軍入城時、城内には一般住民は一人も居らず、城内での虐殺は無かった。
③日本軍来襲以前に、住民二十五万人はすべて下関(揚子江の渡船場)に集まり、対岸浦口(角はホウトウと言う)に渡ろうとした。
④揚子江に面した西側城壁はキレイに取り除かれ、揚子江は気の枠だけ残っており、避難民の城内から下関への通行は自由であった。
⑤渡し賃は渡江希望者が殺到して最初の五ドルが十ドルになり、最後には三十ドルに上がって貧乏人には払えなくなった。
⑥結局ほぼ半数、十二、十三万の住民が渡江できずに下関で第六師団に捕まった。
⑦十二月十七日朝、第六師団から首都飯店の軍司令部情報課(二課)に電話があり、下関の支那人十二、十三万をどうするか、と聞いてきた。課長・長中佐は簡単に「ヤッチマエ」と命令した。
⑧角は事重大と判断して松井大将に報告、松井は長に解放を命じた。
⑨一時間後、再び同じ内容の電話があり、長は再び「ヤッチマエ」と命じた。角には再度松井に止めてもらう勇気がなかった。
⑩十七日、十八日、十九日と角は下関を視察したが、挹江門から揚子江に出て(中山碼頭)右折し、五十メートルから下流二キロにかけて幅三百メートル、ギッチリじゅうたんのように詰まった数万を下らない死体があった。
⑪二十日、松井司令官と角は自動車での下関に行き、右折して河岸通りの死体の上を静かに二キロ往復した。松井はホロホロと涙を流した。
⑫最初の電話は第六師団参謀長から、二度目は殺害命令を不審に思った下野参謀長からと思う。下野の回想録(未発見)には「下関の大虐殺は軍命令で師団長の意向ではなく、このことで谷寿夫師団長の死刑は間違いである。」と述べられているはずである。
》
この内、加登川氏の総括に使われたのは、以上のうち半分の⑦〜⑫だけであった。
引用《
『偕行』で加登川総括が紹介したのは以上のうち半分の⑦〜⑫だけであった。いうまでもなく、当時第六師団は下関にいない。第十軍所属の第六師団が上海派遣軍司令部に処置を聞くはずがなく、十七日朝上海派遣軍司令部はまだ湯水鎭にあって松井も長もここにいた。などこれだけでもこの証言が信用できないものであることは明瞭だが、加うるに①〜⑥を考慮すれば、今更「批判」の必要もない程、といってもよい。
》
このように、全体を考えれば、ガセネタの部類に入るものであったとされている。これは東宝撮影のニュース映画【南京】などを観ると一目瞭然であり、その他ネットなどで検索されると当時の挹江門の様子などが分かる。
前半を使わなかったということは、その証言の内容が問題と有ながら、意図するかのように⑦〜⑫を使われたのは、加登川氏・高橋編集長は、【総括・お詫び】に対しては、次の様な方向性と目的をお持ちの方と見うけられる。
引用《
高橋登志郎「南京戦史の総括的考察に反対された方へのお答え」より
大西サンの一ページ余の論文ではシロだシロだというだけだから、これでは20万、30万説は破砕できない。遺憾ながらあったものはあったとして30万の数的虚構の解明に当たるべきであると、土屋サンは述べておられるのである。これが正に偕行が本問題をとりあげた目的である。(「証言による「南京戦史」」(番外)=『偕行』1985年7月号P9 ゆうサイトより)
》
それが、板倉氏等の他の編集委員の眼に触れると高橋氏の方は、偕行社『南京戦史』 P.758『戦史研究ノートの部=>「角証言」の信憑性について』で次のように主張を変えられているかのように見える。
引用《
むすび
二、角氏の証言で、真実と思われることは左の三点のみである。
1.どこの部隊か師団が判らないが、17日か18日ごろ下関の件で電話があったこと。
2.長中佐が「ヤッチマエ」と言ったこと、
3.松井大将と共に、下関付近で多数の遺棄死体を見たこと。
》
この1987年(昭和62年)12月 『偕行』1938年1月号 『角証言』発表以降に、他の編集委員の反論を受けて、この三点のみを真実とすることに変更されたようであるが、しかし、板倉氏は、私【高橋登志郎】の【2の長中佐】について、事実について疑問を呈しておられる以上、かつ畝本氏の3千や板倉氏の1万6千を受けていても、この高橋氏の政治的意向が少し歪んだものであったことは間違いないであろう。
同時に、他の軍人の方達も、当時は反論できうる知識がなかったかことが伺い知れます。因みに、松井大将が、下関で角証言にあるような遺体を見たと言うことは【日記】には記載されていない。
この事から、総括を出す当時に、畝本氏が【虐殺】という【定義不明】のことを加登川氏・高橋編集長に詰め寄られて3千と苦悩の果てに承知せざるを得なかったことは想像に難くなく、そもそも偕行社の【虐殺】の定義は、【国際法】による【陸戦法規違反】ということと、陸戦法規違反は前に書いた記事においても、【条約】という【相互合意】によるもので【【犯罪】】では無く、第3条にある【賠償】というであることは間違い有りません。戦争では【敵】への【殺傷】は【合法】であるにもかかわらず、その事について言及もしない当時の【総括】は、【陸戦法規違反】を何か異常な【犯罪】にすり替えたように、板倉氏の本来の意図とは違い、この場に及んでも、何等かの【政治的意図】を感じるものと言わざるを得ません。
そして、余談だが板倉氏も御自身の書籍で数値について書かれていることに関しては、【推測】として【陸戦法規違反】があると書かれているだけなのです。ここが重要なのですが、何か明確に90%〜100%在ったと言うことを言及されているわけでもありません。【可能性】という【ある・なし】であって、【蓋然性】という【可能性の内のパーセントの割合】を記述されているわけではありません。
国際法という以上、当然法廷論争が在ってのことと考えられるが、その様なものがあり得ない状態なので、あくまでも個人の可能性と言うことに過ぎない。そして、何度も書きますが、【陸戦法規違反】は【約束事を破った場合】の【その責任を認めれば】【賠償責任】が出る民事的なものであると言う事です。
板倉氏の1千3千から2万人という数値はあくまでも個々のケースからの【刑法】という【犯罪】での【司法裁判】の【判決結果】がありえない[【想像】による【推論】に過ぎない]ことは少し記述しておきます。
日本国や日本人にやたらと土下座を強要する人々は、この事を【理解できない】、【理解しない】、【知らない】、【知った上で都合が悪いので黙ってる】状態で TwitterやFaceBook、自分のブログ・サイト等で拡散されておられます。
【虐殺】の用語自体が、1937年の南京攻略戦当時の状況について使用することは不適切であることは当方の以前のブログ記事で書いて居りますが、【偕行社】の【お詫び】を使うのならば、せめて、当時のお詫びが為された事情や、基本的な【国際法】に於ける知識ぐらいは、知っておくべきだったと考えます。
【参考文献】ですが、参考文献は次のたった二冊である。たった二冊で分かる話なのです。
【参考文献】
・板倉由明著『本当はこうだった南京事件』 1999年12月1日 日本図書刊行会刊行 【Amazon】
・偕行社『南京戦史 史料集Ⅰ』1989年11月3日刊行 【Link】
この二冊の書籍を読めば分かる話なのだが、【ゆう 日中戦争−小さい資料館】の管理人の【トリミング】の提示に文章だけで、信じるのはどうしたことかと考えます。。
自分で主体的に、文献や資料を探せば、こういう【いかがわしいサイト】の誤った情報に惑わされることはないはずなのです。ご情報を拡散している方もそれに反論できなかった方も、どうか主体的に自分で情報を収集することを望みます。
その他捕虜に対する処置は、上海戦線から続く、便衣の問題などからの「信義誠実の原則」を破った支那軍に対する敵対行動であったという認識を最近持っております。
概念的に、現代の紛争と同じで、「戦争」という外交的宣言がないのは確かです。
トップ(近衛、陸軍、海軍)がだらしないとこうなるという見本でもあります。
長閣下は、南京城攻略作戦が、"通州残虐事件の弔い作戦措置"との認識を持っていた、数少ない将校連の一人でした。天皇陛下の軍隊とはいえ、「天皇機関説か天皇主権説か」。現実には、近衛内閣総理大臣が、{いくさ}発令していました。{近衛暴戻シナ膺懲声明}を、残りの将校連は、一読とてもしていなかったと推察されます。大いなるおどろきですね。
ただ、戦闘区域としましては、16師団の受け持ちで13日には占拠しております。
そのころ第6師団の先頭の45連隊は南の草場門の東あたりの三叉川近辺である事から、第6師団隷下の第36旅団(牛島支隊)の45連隊は、下関周辺については無関係と理解しております。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E4%BA%8B%E4%BB%B6
山田支隊は烏龍山北側から南下し下関へ向かい、牛島支隊は南から北上し下関へ向かい、
佐々木支隊は城北部の門を制圧しつつ前進し、13日午後に下関を占領した[11]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9B%E5%B3%B6%E6%BA%80
11月には、膠着状態にある上海方面の戦勢を打開するため、第6師団が同方面に投入された。
第36旅団は上海上陸後、崑山から蘇州の線に沿って進撃し、12月11日に始まった南京攻略戦に参加した。
牛島旅団は南京城から退却する中国軍の退路を絶ち、20,000名もの大量の捕虜と膨大な武器弾薬を捕獲し、ここでも勇名を轟かせている[35]。
珍妙なコメントを頂いたのですが、当方には心当たりがありません。
中国人の首を切り落とすのは、日本軍の行為にもありましたが、中国人が中国人に対し行ったこともあります。
当事者は、ほぼ主観で見たものをどう観じたかはその方の問題で日本人・日本国とは関係の無いことです。
日本国政府も民間人を大量に殺害した事は認めておりますが、どういう行為・状況かは史料を提示していないのが現実で、想像による政治的文言に過ぎません。
武器を持ち敵対行動をする民間人への殺害行為は戦争法規としては正当行為になります。
ご理解がないようで、珍妙なコメントを頂きありがとうございます。
見当違いも甚だしく、久し振りに笑ってしまいました。
また、暇があれば当方のブログを閲覧してください。
日本人が遺伝子的に頭がおかしい民族である証左
被害者である中国人を侮辱して悦に浸ってる油テカリのサイコパス寝たきり奇形ぬらりひょん妖怪ジジイがお前な
二度と漢字をつかうな呼吸もするな汚れる
ヒ素飲んで自殺しろヒトモドキお前はこの世にいらない南京大虐殺の子孫ゴキブリ民族ジャップだ
南京市民は悪鬼日本塵に殺され尽くされた
これは世界が認める事実あり日本塵が世にも恐ろしい悪魔だと証明した
本当にお前らは血も涙もないヒトモドキだなジャップよ
早く絶滅したらどうだ?日本軍は喜んで中国人の首切り落としてたんだよな
お前も親ごと四肢切断されて嬲り殺しにされろボケジジイ