【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】
この南京事件FQAサイトのこの記事の【主張】について反論する前に、情報収集として城外に大量の非戦闘員が居たのかという記録が無いかを調べてみる。
初めに、小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』から始めて見る。
因みに、【引用】ではなく、当方の要約である為、個人の印象や判断は異なるので、原文は書籍(*1)を読まれることをお薦めする。
【10 大寺隆(=本名)陣中日記録】
P.183
10 大寺隆 陣中日記録
所属:第65連隊>第二大隊>第7中隊・第4時補充
階級:上等兵
12月02日 船上から呉淞を通過。岸を眺めると砲弾の後が生々しい。兵士が廃墟の中でせわしく歩いている。
【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】
12月03日 午前8時30分呉淞上陸。支那人の遺体が流れている。戦痕跡を見学。
呉淞砲台跡には遺体が放置され着衣と骨ばかりで、異臭が酷い。
休憩後午後3時、大場鎮へ向かう。伝令の任につく。紡績工場宿営。
12月04日 徴発。町は汚く乱雑。支那人は一人もいない淋しい町。生水は不可。
南京米は美味しくなく食べられない。
12月05日 午前8時発。上海の日本人租界は店舗も再開され、兵士達で大混雑している。
閘北・真茹は激戦の為かなり破壊されている。人馬の遺体腐敗。昼食後行軍、午後4時南翔着。
海軍の酒保が大繁盛。遺体のある中鍋の徴発。略奪後のようで乱雑。
12月06日 午前4時起床。今朝掘りに氷が張るほどの寒さだった。午前6時発。
追撃戦の跡に支那兵人馬の遺体が方々に転がっている。行軍に足が痛む。
激戦の跡に胸痛む。午後7時30分崑山着。宿営地の遺体を片付ける。
12月07日 午前1時に命令有、午前8時発。宿営地設営者は先行する。
車が徴発できずにいた所衛生隊の同行させて貰う。途上道端の人馬の遺体が多数ある。
蘇州城着。蘇州で初めて山を見る。ビールを1本25銭で購入。午後8時半本体到着。
12月08日 午前6時蘇州発。16里(約64km)行軍予定。午前8時頃ニヤ(支那人)を捕まえて荷役をさせる。
ニヤ(支那人)に乾パンを支給すると大喜びする。
昼頃、5、6里(約20km、24km)の荷役の代金として20銭を与える。
昼寝をして予定より大幅に遅れる。別の支那人を雇って出発。部隊よりの落伍者に追いつき同行。
8里(約24km)の行軍で疲労困憊する。午前3時30分大休止。機関銃小隊と宿営。
本隊はそのまま前進。
12月09日 午前7時出発。ニヤ(支那人)を雇って無錫へ午前10時着。無錫では火災で空が明るくなっている。
徴発から戻ると火災が起こっている。支那人が火を付けたと聞く。
12月10日 青陽鎮まで6里(約24km)の車での行軍。部隊の者がニヤ(支那人)を雇っているので
中隊の人数が倍になっている。今までの行軍の疲れから腰が痛む。
今日より朝香宮鳩彦王が上海派遣軍司令官に着任。西洋鎮でも火災後の戦場跡が生々しい。
12月11日 先行隊として先に出発。難路の為部隊との差は、1km位。午後輜重部隊の馬と同行。
午後5時30分常州着。宿営。
12月12日 前日と同じく先行隊。輜重隊の車輌で先を行くが、本体は行軍難航。午後馬と行軍。
丹陽城は火災が酷い。宿営地がなかなか見つからない。部隊本隊の到着は午後11時頃。
12月13日 丹陽から鎮江まで最後の行軍。敗残兵に注意しながら難路を行軍。午後6時過ぎ鎮江着。
ここに到着すると至る所で火災がある。行軍中は疲労と電灯がないので日誌を付けられなかった
が、電灯があるので午後11時迄2、3日分の日誌をつける。
12月14日 南京ヘ向け両角部隊追求。第4中隊は徴発担当となる。
鎮江のビール工場が火災でビールの徴発ができなかった。携行食無く行軍。
午後の行軍途上敗残兵と交戦。午後4時高資鎮の着。アヒル2羽、山羊2匹、驢馬1頭徴発。
12月15日 朝食は前夜の残り。午前8時30分発。山道を行軍。左側斜面に延々と続く交通壕と所々のトーチカ。
龍潭鎭午後5時着。途上附近で敗残兵殺害。大きなセメント会社に宿営。
徴発(米2斗、アヒル2羽、豚2匹、チャン酒、味噌、醤油、小豆)
12月16日 徴発隊。午前8時30分発。物資豊富で徴発容易。
龍潭鎮から約4里(約16km)の午後2時半東流鎭着。午後7時半、敗残兵2名殺害。
16連隊の一部が夕方敗残兵掃討。機関銃小隊分隊で夜半火事を出す。
12月17日 午前7時40分整列、上元門へ向け発。天気よく汗をかき水が無くなり、クリークの水を飲む。
山行峠を行軍。午後3時南京では入城式があった事を聞く。峠から南京城が見える。
両角部隊駐屯する揚子江沿岸に着。宿営。
【土下座強要派】の小野賢二氏の資料は、その【真偽】は兎も角、面白い資料である。このサイトや土下座強要派の方々から【幕府山】での【日本軍の犯罪行為】の【根拠】とされる文献だが、日記が本物ならば面白い事が判る資料でもある。
このサイトの方々の【事件】なるものの主張範囲は【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】であるから、12月3日以降を見てみると、第4次補充隊員の為で、ほぼ南京攻略戦を体験していない。この大寺氏は、偕行社の『南京戦史』の方にも紹介・検証されておられる方で、実名である。
上海周辺でも、遺体整理が出来てない事が書かれている。上海陥落という大場鎭が陥落したのは10月の末で当時の状況が許される状況では遺体整理は無理であったようである。ビールが1本25銭で、12月8日に荷役賃料が20銭を支那人に支払っているが、煙草代やビールと比較して安すぎるように感じるが、当時の支那農家の労賃物価としては1900年頃に米国の宣教師が使役した際に支払った賃金が1円/月ぐらいであり(*2)、37年経って貨幣制度改革などや米国の銀買いの影響でのデフレも含めて物価としては2倍ぐらい(*3)であろうかと考えると、農家の1ヵ月の30%近いの現金収入が得られたわけで、荷役として本来敵国日本軍の行動に支援することになるにも関わらずスンナリ雇われた事が理解できる。しかも、乾パンという給養付であれば割の良い仕事であったと考えられる。日本軍の悪影響は、鎭江やそのた場所での火事は、支那人雇用により敵工作者側に部隊の位置を教える事になるものではないかと考える。当初の部隊とは違い、携行食の乾パンを所持していた様である。
(1906年から始まり1933年までしかないが、実質賃金がどれぐらい上がっているかを見るとほぼ2倍程度)
12月16日、棲霞山近くの東流鎭以降に【一般人】が【大勢居た】ことも【民間・兵卒】共に【大勢が殺害された】こと等は、一切記述にないのは言う迄もない。
この人物は、12月19日に幕府山麓の遺体処理に参加しているが、他に特筆できるものは無い。今回のテーマではなかったので詳細は示さず紹介に止めておく。興味のある方は小野賢二氏の書籍か偕行社の『南京戦史 史料集Ⅱ』(*4)を読んで頂く事をお薦めする。後者には小野賢二氏の史料には無い荒海清衛氏の日記も記載されているので【幕府山】のケースの参考になるかと考えられる。
国際社会で流布している【歴史観】で、ジョシュア・A・フォーゲル『歴史学のなかの南京大虐殺』(*5)という書籍に書かれているようなハーバード学派の歴史学者達の南京に於ける日本兵のイメージとしての次の文面と比較すると、ほぼ間違いなく間違っていると言わざるを得ない。
この大寺という人物は、楽しんでいる様子を記していないし、【個人】として軍事上不必要な殺害は行っていない。
引用 チャールズ・メイヤー(*6)【まえがき】《
個人としての兵士が、銃弾のみならず刀や銃剣を使っておそらくは何万人もの民間人をしばしば陽気な気分で殺害したことを意味するがゆえに、それだけいっそう残虐であるように思われる。
《中略》
退廃や人間性喪失を増幅させることにも一役買った。
》
日記の記述には、殺害を陽気な気分で行っているとは記述していない。特に人間性を喪失している記述も見られない。
こういう誤った【思い込み】による【歴史認識】が【世界】では【主流】ということは、【近代史】という【学問】【科学検証】への【質】を劣化させている一因になっている事は間違いない。
この大寺には12月15日には大きなセメント会社に宿営と徴発をしたようだが、場所が棲霞山より16kmも離れた場所のようであり、棲霞山近くの東流鎮で敗残兵2名を殺害しているが、付近に於ける大きな交戦は書かれていない。BBCの2019年09月2日の記事【南京大虐殺で、多くの中国人救ったデンマーク人 没後36年目の顕彰】でのベルンハルト・アルプ・シンドバーグ氏のいうセメント工場での話という日本軍がセメント工場から徴発あるいは攻撃した話は爪の先程も出てこない。因みに、記事を読むと日本軍から守ったのであって、セメント工場の中の避難民が殺害された訳ではないことは言うまでもない。
【参考文献・参照サイト】
(*1)小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』
全416頁 大月書店 1996年3月14日 【Amazon】
(*2)別宮暖朗著『失敗の中国近代史』第五章 北清事変=>キリスト教の台頭 P.169/14行目 並木書房 2008年3月20日 【Amazon】
(*3)王玉茹「戦前の中国物価推計に関する考察」 【Link】
V.賃金指数=>附表6 中国農業賃金指数(1906-1933年) 【Link】
(*4)偕行社『南京戦史 史料集Ⅱ』【Link】http://www.howitzer.jp/topics/index2.html
(*5)ジョシュア・A.フォーゲル『歴史学のなかの南京大虐殺』 柏書房 2000年5月1日 【Amazon】
(*6)チャールズ・メイヤー wiki 【Link】
【参考サイト・Twitter】
ZF殿サイト及びTwitter
・補記10 幕府山事件(地理編) 【Link】
・ZF殿のTwitter 地理のスレッド 【Link】
・ZF殿のTwitter 収容所の位置 【Link】
・ぎよみどん殿のTwitter 幕府山の画像(7年後の1944年撮影) 【Link】
公開が目的でないようでしたら、こちらに居りますので、ご質問などあれば覗いてみてください。
https://9212.teacup.com/kingendaishi/bbs
研鑽を続けて居られることは何よりです。
曽虚白の【回想記】について論じられた北村氏への反論は、松村俊夫氏も疑問を提示られ手居られます。当方も【証言】【回想】については、ロフタス氏の【記憶】をめぐる問題から、懐疑的です。領収書・需用伝票が出たのならそうかも知れませんが。ベイツが受けてスマイスに依頼したのなら残るはずがありません。その辺は卒がないようにしているのではないでしょうか。当方は、それよりも【報告書】の【内容】に問題があると見てますので、【虚偽宣伝】の【小道具】と考えております。
最近、自分が北村稔氏の「南京事件の探究」を購入して読みましたが、wikiで虐殺派が北村氏への批判が少し気にいります。
例えば、「渡辺久志は中国帰還者連絡会の機関誌上で、曽虚白が、ティンパーリが日本軍占領下の南京にいたとする誤りを前提として語っていることなどを指摘、この証言には問題があるとし、また、曽虚白は当時ティンパーリが中央宣伝部と関係があったとはしていない(関係があったと書いているのは王凌霄)として北村説を批判している[13]。また、井上久士は「中央宣伝部国際宣伝処二十七年度工作報告」[14]には「われわれはティンパリー本人および彼を通じてスマイスの書いた二冊の日本軍の南京大虐殺目撃実録を買い取り、印刷出版した」とあり、曽虚白の回想記の「二冊の本を書いてもらった」という記述は誤りと主張している。」などのところを読んだ後で、もっと南京事件の実相に迷いました。
大変ご迷惑をおかけいたしますが、少し説明していただいてもよろしいでしょうか。