【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】への反論前の研究ノート その20

2020年05月28日 13時10分02秒 | 1937年 南京攻略...

【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】
この南京事件FQAサイトのこの記事の【主張】について反論する前に、情報収集として城外に大量の非戦闘員が居たのかという記録が無いかを調べてみる。

前に、小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』(*1)からの分析に引きつづいての【第38連隊】の【戦闘詳報】から探ってみる。
因みに、【引用】は、ほぼ無く、原文は国立公文書館 アジア歴史史料センターで、第38連隊で検索するか、又はZF殿が纏められておられたので氏のウェブサイトのこの頁の【C】から始まる12桁の数値で表される【レファレンスコード検索】で探して読まれることをお薦めする。

最初に確認しておくが、南京事件FQAサイトのこの記事の【主張】は、主に【城外】に大量の【非戦闘員】が居て、それが戦場における日本軍の不軍紀且つ国際法の陸戦に関する条約の【陸戦法規】に違反する不当行為により殺害で、しかも大量殺害を犯したという主張である。

その根拠としては主に【崇善堂】の【埋葬記録】などである。それ以外にも周辺での【避難】せずに、又は家族の都合などで、村落の大部分の一般住民が取り残されていたものを、【戦闘】及び【徴発の際】などでの日本軍の不当行為で【殺害】したという【主張】である。
この【主張】に則り、範囲としては、【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】である12月3、4日以降の範囲に限定する。でなければ前にも後ろにも収拾がつかず論的に判断できないからである。
それと、【歴史】を調べる上で、【第一次史料】はとても重要であり、当時を【知る】という意味では、【最重要】な【史料】ではあるのは言う間でもない。
後述するが、【蓋然性が高い】かと言えば、【精査】が必要であり、今回の第38連隊の【戦闘詳報】に於いても同じである。
【戦闘詳報】は、リアルタイムで記述されるものでは無く、戦況によって変化する中で、担当者の置かれた状況次第で、後日に書かれることになり、記憶や連絡メモなどを参考に記載される。記憶は忘失・誤記憶があり、連絡メモなどは紛失なども状況に依ってはあり得るので、【想像】による【記載】になることがある。それはいわゆる【蓋然性の低い】と言うことに外ならない。

調べた【戦闘詳報】は以下の通りで、
第1号_滸浦鎮付近戦闘詳報 【C11111199400】
第2号_福山鎮付近戦闘詳報 【C11111199500】
第3号_常熟付近戦闘詳報 【C11111199600】
第4号_安鎮・吼口付近戦闘詳報 【C11111199700】
第5号_東亭鎮付近戦闘詳報 【C11111199800】
第6号_■巷上付近戦闘詳報 【C11111199900】
第7号_塘頭・無錫附近戦闘詳報 【C11111200000】
第8号_上鮑亭・黄野付近戦闘詳報 【C11111200100】
第9号_東流鎮付近戦闘詳報 【C11111200200】
第10号_尭化門付近戦闘詳報 【C11111200300】
第11号_十字街・興衛・和平門・下関付近戦闘詳報 【C11111200400】
第12号_南京城内戦闘詳報 【C11111200500】
全部で12冊である。

ポイントは、【地形・住民】として【項目】があるので、併せて【気象状況・戦闘前の状況・敵の情報・戦闘後の状況・その他の参考にすべき情報】の項目に注意を払って調べてみた。

第1号_江蘇省常熟県 滸浦鎮付近【戦闘詳報】(昭和12年11月14日・15日)は、昭和12年11月14日に第38連隊が除六経口に上陸した所から始まる。15日に滸浦鎮の城塞を攻略・占領すると、城内には約200名の住民が存在したことが書かれていて、老齢の女性(記述が老人と女性か判断しづらい)や子供のみと言う事である。
15日の段階で、揚子江沿いの主要戦を敗退し退却する支那軍を追って一部は動き出している。天候は良く路面の問題もないようで、行軍にも支障がない。この時に【その他】の情報として、敵地での糧秣の徴発は、大行李が追随できない場合でも戦闘が続行が可能と書いている。捕虜は、准士官又は下士官のどちらかを1名を鹵獲したようである。

第2号_江蘇省常熟県 福山鎮付近【戦闘詳報】(昭和12年11月16日・17日)では、15日に滸浦鎮を占拠後、直ぐさま師団は福山鎮を目指して進軍している。福山鎮付近で、住民は存在を確認しているが、人数などは特に記載されていない。また住民に敵軍の情報を聴取したようだが当然の事ながら情報を得られなかったようである。又避難しつつありとしてあるので、日本軍の進軍が予想できていなかったことを判る。行軍は天候が雨の為、路面が泥濘化して、重い速射砲をつかう速射砲部隊が送れてしまっている。揚子江沿いの作戦には海軍の水雷艇が支援を得て福山鎮を速やかに落としている。福山鎮から南の常熟までの線で陣地帯が設置されているので、一端梅李鎮に戻り常熟へ向かっている。道は雨の為に悪路となり行軍は難航したと記述されている。

第3号_江蘇省常熟県 常熟付近【戦闘詳報】(昭和12年11月20日)では、前日からの路面泥濘化での進軍で、さまざまな支障があるようで、住民は一般に遠く避難している様子で付近に姿を見ることは出来ないとあり、敵攻撃も速やかに攻略・占領して、進撃を始めている。又、地形を旨く利用しようとして短距離での徴発した民間船を利用して短い距離を遡航したようだが、乗降に思ったより時間が掛かったようで時間の無駄だったようである。退却する敵軍への先行追撃部隊は20日の時点で、安鎮へ向け進撃している。

第4号_江蘇省無錫県 安鎮・吼口付近【戦闘詳報】(昭和12年11月21日・22日)では、21日より先発部隊が攻撃に入っている。南邱から安鎮への道のりは敗残兵とのクリークや防衛小陣地で小戦闘をを繰り返しながら、進軍している。終日雨で、やはり車輌部隊は困難を極めて、橋などが敵退却時に破壊され進軍は困難ながら進めている。安鎮と吼口山付近の占領には敵陣の構築で吼口山に手こずり22日迄かかり敵陣占拠している。敵陣地構築の為か住民の姿は見えないと記述され居る。

第5号_江蘇省無錫県 東亭鎮付近【戦闘詳報】(昭和12年11月23日)では、無錫の防衛拠点として東亭鎮付近を南に北には密集した陣地群があり、鉄条網やクリークを堀として利用し、自動火器を配備して巧妙に防衛ラインを引いている為、攻略に停滞している。ここで連隊は二手に分かれ北上する第二大隊と、そのまま西進する本部と第三大隊に別れる。住民の一部がに集結しているとあるが、どのとも人数・性別・老若などの情報の記述は無い。多数の防衛ラインが密集して居るエリアであり、戦闘による犠牲もあった可能性もあるが、ハッキリしたことは判らない。

第6号_江蘇省無錫県 ■巷上付近【戦闘詳報】(昭和12年11月24日・25日)では、東亭鎮から別れた第二大隊の戦闘で、23日〜25日にかけて防衛ラインと陣地帯を縫うように北上している。33連隊が左側を進軍している。この辺りから連携作戦を取っているようである。
平坦地で、クリークが多く、更に幅が広い為に渡渉が困難な上、橋破壊されていて、前進は困難。夜は気温が低下してきている。
戦闘エリアには住民は避難しているようだが、一部で婦女子がの一隅に集まっていることが確認された。

第7号_江蘇省無錫県 塘頭・無錫付近【戦闘詳報】(昭和12年11月26日)では、東亭鎮附近の敵陣地を33連隊と共に攻略し、支那軍は陣地を放棄し無錫へ向け退却した。地形が湿地帯で、クリークも水深が5、6mと深く、橋を補強せざるを得ない為に、行軍は敵の攻撃もある中で、橋を修復まで進捗しない。
このエリアは、東亭鎮同様に一部の婦女子がの一隅で固まっていることを確認。前5、6号同様に保護した・殺害したというような記述は無い。放置した可能性もある。日本軍に対して好意的な様子が全く無いと記述しているが、通常敵国の軍隊の兵隊に好意的云々はないと考えるが、何故このような文章を入れたのか理由は不明。

第8号_江蘇省句容県 上鮑亭・黄野付近【戦闘詳報】(昭和12年12月6日〜9日)について、本来ならば、第8号は、11月27日〜12月5日迄の筈であるが、何故か【戦闘詳報】として冊番号が数字順になっているが、日時に【空白】がある。歩兵第38連隊(佐々木支隊)戦闘経過要図(*2)においても、【除六経口〜無錫(11月28日無錫にて調整分)】と【無錫〜南京(12月20日南京にて調整)】の二つの進軍経過図を見ても、前者は無錫で終了していて、後者は無錫から太平庄(常州、丹陽、白兎鎮、黄土橋を経て)は、経過報告がない。理由は分からないが、冊番号は合致しているし、期間は9日間(11月30日で終わり)も空白になっている。別の【第38連隊行動概見表】では【南京に退却する敵兵が個々に既設陣地にこもって抵抗】とあるが、【戦闘】があったのなかったのか何なのかよく判らない。第9連隊という別連隊の第3大隊第9中隊第一小隊=>大野少尉小隊長【陣中日記】があるようだが、東中野氏の溝口郁夫氏の百人斬り関係の文脈の中で語られ、12月1日丹陽、12月4日白兎鎮、12月5日行郷鎮、白許岡、殷巷、賈岡里(賈相里)とあるだけで、38連隊の行動の詳細は分からない。
別の記録としては、16師団の参謀本部中澤三夫大佐の陣中日誌には、29日に常州を陥落占拠後も丹陽附近に師団の兵力を集結させる為に、奔牛鎮や白兎鎮附近の拠点で抵抗する敵兵を排除し、丹陽城を占領している。
戦闘がなかったとは、考えにくいが兎も角として、【戦闘詳報】が存在していないか、号数を振る際に、無かったと言うことかも知れないが、よく判らない。偕行社の『南京戦史』は基本的に12月が多く。38連隊もこの11月末の記述は無い。中島今朝吾中将の記録も12月であったので、9日間(11月27日〜12月5日)の【戦闘記録】は戦闘はあったと考えられるが【史料】としての【戦闘詳報】は無いようである。常州、丹陽、白兎鎮、黄土橋での38連隊の行動は判らないし、住民に関する手がかりもない。
気を取り直して、上鮑亭・黄野付近は山並みが波状になる山岳地帯で、人家も少ない為、住民は殆ど居ないと記述されている。

第9号_江蘇省句容県 東流鎮付近【戦闘詳報】(昭和12年12月9日・10日)では、普陀寺付近に中国軍は敗走兵を吸収し、防衛陣地で抵抗を試みる。山岳地帯で、樹木もクリークも殆どないエリアで、鹿砦(簡易的な樹木や竹を用いた防御冊)で防禦している場所がある。
数は多くあるが、住民は殆ど見られないとある。
尭化門以降の路面には、地雷が設置されて追撃の妨害を行っている。
捕虜はいない。

第10号_江蘇省句容県 尭化門付近【戦闘詳報】(昭和12年12月10日〜12日)
起伏地が多く防衛に適している。高地・平地には濶葉樹(広葉樹)が多いので、身を隠しやすいという利点もある。16師団右支隊で、東流鎮より12月10日午前10時仙鶴門北方高地より何家辺と普陀寺の線を奪取。仙鶴門より尭化門を目指し、午後0時西碼頭南方高地を占拠。野砲兵・迫撃砲隊は仙鶴門鎮北高地に進出。
仙鶴門周辺の民家は殆ど支那軍の【放火】により消失。尭化門附近の村々も燃え続け、住民は婦女子すら確認できない。
この第10号には問題の記述が存在する。
鹵獲の表中に、【俘虜の7,200名は第10中隊が俘虜にし武装解除せしものを示す。俘虜 将校:70名、准士官・下士官:7,130名】とある。
戦闘詳報中に、何処で第10中隊が捕虜にしたことは書かれていない。第10中隊の所属する第三大隊は連隊本部と共に行動しており、その後第10中隊が仙鶴門付近に残留警備するとあるが、何時・どの地点で【7,200名】という大量投降兵を鹵獲したのか明記されていない。第8号の所で説明に利用した、戦闘経過要図、行動概見表でも記載が無い。
第65連隊などでは【戦闘詳報】が存在しないのか閲覧できない状態なのかで、確認は出来ないが、小野賢二氏の収集したとされる65連隊の少尉以下の兵卒たちの【日記】の記述にはそれなりの大きな印象的な出来事として場所等も書いているが、余り情報が上がってこない。第三大隊の3日間の動きにも特に目立った記述は無い。65連隊の戦闘詳報があれば比較しやすいがこれ又アジア歴史公文書センターでは公開されていないので仕方がない。

第11号_江蘇省南京市 十字街・馬衛・和平門・下関付近【戦闘詳報】(昭和12年12月12日〜13日)では、前日からの流れで、仙鶴門・尭化門を制圧した後、紫金山の北部の盆地を経て下関へ進出している。もともと南京での蒋介石国民党政府の軍事演習場であったようで、地形を旨く利用した防御施設を構築している。ここでも小が点在しているとのことだが、家屋の殆どが焼却・破壊されて、住民の居住している様子がないことが書かれている。主要道路も又破壊されて馬及び軍用の車輌(荷車)なども通行が困難又は不可能な状態にされている。敵の概要は、第36師、第48師、そして一部が教導総隊(青色の軍服)である。
敵は敗走後、一部は南京城内に。大部分は下関に追いつめて殲滅。極少数の部隊が揚子江を渡り対岸へ逃走。下関での掃蕩数は2万を下らないと判断している。その後現地に於ける露営についての注意事項が出されていて、露営の際、付近の民家に不用意に立ち入り不法行為を行わないように各隊の幹部へ通達をしている。

第12号_江蘇省南京市 南京城内【戦闘詳報】(昭和12年12月14日)では、敵は南京北部下関より揚子江北岸に敗走し、日本軍の急速な進軍の為に退路を断たれ、殆ど殲滅された。城内には抵抗の意志を有する敵兵が相当数居るものと推測。12月14日旅団は南京城内中央門より西エリアを掃討区域とする。旅団司令部は中央門外。連隊は下関にあって、連絡が不便となっているようで、合同の33連隊は、金川門を含むこれより西の城門を守備しつつ、下関及び北極閣の東西に連絡する線、城内中央より獅子山に通じる道路を含む城内三角地帯を掃蕩撃滅し、38連隊は、金川門より東の城門を守備し33連隊の掃討区域より東の地区を掃蕩。第2大隊は城外玄武門及び紫金山の中間の山岳地帯とこれより北部地区を掃蕩を行った。
14日に海軍の戦艦勢多が京滬桟橋(当方推測:おそらく海軍艦隊碼頭)に投錨したようである。
南京城内に相当数の避難民の存在が推測されるが、一地区に集合避難している様子。掃蕩地区エリアには住民は殆ど見られないとして、城外に関しては記述は無い。前述の戦闘詳報11号で記述して有る通り、周辺の家屋等は破壊されていたことで、住民は居ないとしている。
ただ、もっと後日の17日に砲艦比良の土井艦長が煤炭港及び東にある和記洋行とその同地にある宝塔橋街に避難民の姿を確認しているので、当時の38連隊ではその方面への掃討及び徴発は行わなかったかと考える。
掃討戦場所での一般住民の姿はなかったと戦闘詳報にはみられると判断する。
この12号には、第10号の記述とダブル問題のある記述がある。それは鹵獲表に書かれた捕虜のことで、【第10中隊尭化門附近で、14日午前8時30分頃数千名の敵白旗を掲げて投降して来た。午後1時より武装解除の上、南京に護送。表中には、将校 70名、准士官・下士官 7,130名】と書かれている。

他の史料としては偕行社の『南京戦史 資料集Ⅰ』に掲載されている中島今朝吾師団長の【日記】には、13日の段階で【後日到リテ知ル処ニ依リテ】とあり、第10号で書かれた捕虜のことと窺われる。
想像できることとしたらば、14日の戦闘詳報が後日書かれて、記憶又は情報が錯綜したとも考えられ、14日は奇しくも第65連隊が、幕府山で1万4千777名(旅団本部調べと斎藤次郎[偽名]の日記にある)の捕虜を得た日もあり、連隊の名誉の為に担当者が様々なことを調査せずに又は虚偽申告として書いたのではないかとも思われる。これは想像なので何の蓋然性は伴わない。
他の史料としては、佐々木到一私記(回想)に於いても、10号のことも、12号のことも書かれていない。回想記であるから誤記憶や忘失もあるかも知れないが、捕虜に関して1,000や500と書かれているのにも関わらず、7,200名に関する感想などの記述がない。第65連隊のことを考えると、約7,000名を鹵獲したことは部隊の功績ではないかと考えるが、戦闘詳報には2度も明記があるにも関わらず、触れていないのは違和感が残る。

これも【単なる想像に過ぎない】が【捕虜の数値】は、【少ない】又は実際には【存在】しなかったのではないかと考える。
14日は馬群付近で下関からの逃亡兵と見られる集団に襲撃されて、あわや司令官の朝香宮鳩彦王に害が及びかけた戦闘があり、その後、鹵獲した敗残兵200〜300名を処刑している。同日に7,200名も尭化門付近で鹵獲したというのであるから違和感を感じる。尭化門のどの場所で鹵獲したのか明記が無いのでさらに疑問が湧く。尭化門と馬群は4km程度であり、第10分隊が実際には取っておらず、鹵獲していたとしても、数値も7,000程度に感じただけで、数値的には不明な部隊の通過を確認してしまったのち、司令部が襲われたので、7,200名の捕虜を鹵獲したことにして、部隊の失敗を隠匿しようとしたという節も想像はできる。単なる【想像】に過ぎない。この10号と12号の戦闘詳報の記述について【蓋然性の高低】を問われれば、この捕虜の鹵獲と移送に関しては【高い】とは言えるはずがない。

 

【分析・考察】


以上一応1号から12号の上陸から南京戦での首都陥落までの第38連隊の【戦闘詳報】に於ける【一般住民】の【記述】を探してみた。
【戦闘詳報】だけでは、一部の区間が存在せず、不備があり何とも言えないが、記述としては南京に来る進軍行程での【住民】を確認した記述は見ることが出来たが、中規模・大規模の数値を示すような【住民】の確認は【戦闘詳報】には見られない。数値としては200とか300名ぐらいで、これを中規模とか大規模の範疇に入れるかどうかは個人差による感覚の違いがある。
そして別段、意に沿わない【住民】を【殺害】したことを【戦果】として書かれているわけでもない。敵国民の婦女子が好意的でないというごく当たり前の記述はあるが、何故その様なわかりきったことを書いたのか不明ですらある。
戦闘詳報を通じて判ることの一つは、一つの要塞・要所である城塞・群落を占拠すると直ぐさま【追撃】を行って、同場所には1日程度を滞在するかしないかで出発している。大行李・小行李などの配送する後続部隊や砲兵など重いものを運ぶ部隊は、その道の難路に阻まれ、遅れを取り戻す為に必死に行動していることがわかる。
所謂、道すがらに、戦闘行為に関係のない住民をわざわざ探し出して、時間を潰して【殺害】している暇はないと言う事が判る。
ただ、7号(昭和12年11月26日)から8号(昭和12年12月6日〜9日)の間にあるはずの【戦闘詳報】が存在せず、丁度その区間に当てはまる情報としては、無錫や常州近辺での歩兵第20連隊第三大隊軍医【保坂晃の日記】や同連隊【牧原信夫上等兵の日記】に見られるような、【事前の行動の全体像】が判らない【一見非道に見える個人の行為】が記されていることがあり、第38連隊の戦闘詳報での確認が必要であるはずだが、その区間に関して【戦闘詳報】やその他の【経過図】などの【史料】から知る事ができない。
偕行社の『南京戦史』でも、南京攻略戦の付近の12月10日前後以降の記述で、参考になる史料は存在しない。これは【南京城周辺】で何があったかに重きが置かれていたことで、その期間についての詳細な論述が無いために今のところ判らない。勝手な【想像】が湧くが単なる想像に過ぎないことは言うまでもない。
ただ、当初の【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始である12月3、4日以降の範囲に限定する。】という期間・エリアで限定しても、丹陽から黄土橋までの行軍の詳細が不明ではあるので、何とも言えないが、それ以外の地点では特筆されるべき住民が中規模・大規模の数値(当方の感覚)を示す住民の記録は見当たらない。歯切れの悪いまとめにはなったが、【戦闘詳報】の欠落が問題で、歩兵38連隊の記載不備の責任と言われればそうである。

東京裁判で中国側から提出された証拠の【崇善堂】の埋葬記録に於ける【③昭和13年4月7日〜昭和13年4月20日(14日間)中山門外より馬群に至るエリアでの埋葬遺体数:33,828体】での【民間人】というのは、あり得ないと考えられる。

該当場所に於ける10号・11号・12号の戦闘詳報を読んでも【一般住民】の姿を確認したという記述は見られない。
不明エリアに住民がどれ程居たかということは【南京虐殺肯定派】側からも【史料】は上がっていない。恐らく台湾の中華民国側にはもしかしたら【史料】が存在するかも知れないが今のところ出て来たという情報はないし、中華人民共和国の【中国共産党】側にはマトモな史料がない。あったとしても政治的に不利となるような【史料】は出してこないだろう。あれば既に【出していた】と考えるのが、中国共産党への理解であり、つまりこの期間とエリアの第38連隊の活動に関しての公式記録は【藪の中】である。


【備 考】


婦女子が置き去りにされている様な記述になっている。当時の中国における婦女子の【立場】が何となく分かり得るもので、逃げる際の足手まといにされたか、保護される対象と見なされなかったと理解出来る。通常歴史的に【屠城】で中国人が行ってきた【強姦・殺人】などが有るように【生け贄】とそれを行うことで【足止め】する目的で、わざと【残置】を行ったという非人間的な行動であった可能性もありえる。それはラーベの日記(*3)に於ける安全区を作る上でのラーベと支那軍の黄将校とのやり取りからの【類推】からである。

引用《日本に征服された土地は、その土のひとかけらまでわれら中国人の血を吸う定めなのだ。最後の一人が倒れるまで、防衛せねばならん。いいですか。あなたがたが安全区を設けさえしなかったら、いまそこに逃げこもうとしている連中をわが兵士たちの役にたてることができたのですぞ!》

日本軍の早い追求と支那軍の早期の敗退・逃走であったたとしても、婦女子の生命に関しての【保護】に関する支那軍の【軽視】は窺われる。

 

【参考文献・参照】


(*1)小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』
    全416頁 大月書店 1996年3月14日 【Amazon】

(*2)38連隊の別史料
    38連隊_戦闘概見要図 【C11111209400】【Link】
    38連隊_戦闘経過要図 【C11111205500】【Link】
    38連隊_歩兵行動概見表_11月 【C11111208100】【Link】
    38連隊_歩兵行動概見表_12月 【C11111208200】【Link】
(*3)『南京の真実』(ジョン・ラーベ著/エルヴィン・ヴィッケルト編/平野卿子訳/2000年/講談社) P85/3行目 【Amazon】


【参考サイト・Twitter】


ZF殿サイト及びTwitter
・補記10 幕府山事件(地理編) 【Link】
・ZF殿のTwitter 地理のスレッド 【Link】
・ZF殿のTwitter 収容所の位置 【Link】
・ぎよみどん殿のTwitter 幕府山の画像(7年後の1944年撮影) 【Link】

 



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