先月の10月28日に、北条の高縄山は高縄寺さま(真言宗醍醐派)にて雅楽の演奏のご縁を頂きました。
住職が所属する豫洲楽所(よしゅうがくそ)は、愛媛県松山市から今治市の浄土真宗の僧侶らを中心とする雅楽の会です。
昭和59年に、私の父である前住職と松山市内の住職ら5人で立ち上げた会です。
現在は浄土真宗本願寺派と真宗大谷派(お東)の僧侶ら17名の会員がいます。
私も自坊に戻ってからは参加させて頂いております。
お坊さんが雅楽をするの?と不思議に思うかもしれませんが、特に浄土真宗では寺院の法要で雅楽を演奏することがよくあるんです。
仏祖へのお供えとしての雅楽の献楽であり、法要の場のお荘厳(おしょうごん)として雅楽を用います。
お荘厳とはお飾りなどのことをいいますが、雅楽もお荘厳のひとつです。「雅楽によって法要の雰囲気を整える」といえばわかりやすいかもしれません。
豫洲楽所では、学校や介護福祉施設、地域行事などでの訪問演奏も行っています。
地域行事として、この度は「河野氏まつり」の主催者側から雅楽演奏の依頼がありました。
その時の様子は豫洲楽所のブログに掲載しております。
↓以下のリンクより御覧ください♪
(豫洲楽所のブログも新しく完成しました☆)
河野氏は、伊予国(愛媛)一円に勢力をもっていた豪族であり、北条が発祥とされています。
なにを隠そう、定秀寺の開基である河野通定も北条が縁となっています。
高縄寺さまの庫裡の玄関口に、こんな説明看板がありました。
説明書きによると、
「河野通有の三男通種の嫡子、刑部少輔通任が……地頭職に任ぜられ、鹿島初代城主となった。その後……(鹿島城主が)通定の時……(後継者の)世継ぎ争いが起こった。…(中略)…鹿島城主通定は真宗に出家・円了と改め、三津浜に定秀寺を建て三津御船番頭として住んだ。」
とあります。
定秀寺の開基は河野通定、法名は釋円了です。
三津の港の要所として定秀寺が現在地に建てられ、御船番頭とはいわゆる船手組(ふなてぐみ。港に出入りする船を管理、監視する役職。水軍。)という役職のことを指しているものと思われ、その番頭として通定は三津へ移り住んだということです。
定秀寺の寺史によると、もともと北条にあったお寺が、慶長十年(1605年)三月に寺基が現在地へ移ったとされています。
ちなみに、お寺が三津に移る際に、何人ものご門徒方がお寺について行き一緒に三津へと移り住んだ、とも聞き伝えられています。現在境内にある大銀杏は、その時にご門徒方が北条から運んでくださったものです。
また、北条に定秀寺があった名残で現在でも北条には定秀寺のご門徒方が多くいらっしゃいます。
思わぬところで定秀寺の歴史の一端をみることができて、なんとも感慨深いものがありました。
秋色に色づき始めた山の景色のなか、静かなお寺で雅楽を演奏するのはなんとも気持ち良かったです♪
雅楽での法要への出仕などもお寺のお勤め(お仕事)のひとつなのです☆
住職が所属する豫洲楽所(よしゅうがくそ)は、愛媛県松山市から今治市の浄土真宗の僧侶らを中心とする雅楽の会です。
昭和59年に、私の父である前住職と松山市内の住職ら5人で立ち上げた会です。
現在は浄土真宗本願寺派と真宗大谷派(お東)の僧侶ら17名の会員がいます。
私も自坊に戻ってからは参加させて頂いております。
お坊さんが雅楽をするの?と不思議に思うかもしれませんが、特に浄土真宗では寺院の法要で雅楽を演奏することがよくあるんです。
仏祖へのお供えとしての雅楽の献楽であり、法要の場のお荘厳(おしょうごん)として雅楽を用います。
お荘厳とはお飾りなどのことをいいますが、雅楽もお荘厳のひとつです。「雅楽によって法要の雰囲気を整える」といえばわかりやすいかもしれません。
豫洲楽所では、学校や介護福祉施設、地域行事などでの訪問演奏も行っています。
地域行事として、この度は「河野氏まつり」の主催者側から雅楽演奏の依頼がありました。
その時の様子は豫洲楽所のブログに掲載しております。
↓以下のリンクより御覧ください♪
(豫洲楽所のブログも新しく完成しました☆)
河野氏は、伊予国(愛媛)一円に勢力をもっていた豪族であり、北条が発祥とされています。
なにを隠そう、定秀寺の開基である河野通定も北条が縁となっています。
高縄寺さまの庫裡の玄関口に、こんな説明看板がありました。
説明書きによると、
「河野通有の三男通種の嫡子、刑部少輔通任が……地頭職に任ぜられ、鹿島初代城主となった。その後……(鹿島城主が)通定の時……(後継者の)世継ぎ争いが起こった。…(中略)…鹿島城主通定は真宗に出家・円了と改め、三津浜に定秀寺を建て三津御船番頭として住んだ。」
とあります。
定秀寺の開基は河野通定、法名は釋円了です。
三津の港の要所として定秀寺が現在地に建てられ、御船番頭とはいわゆる船手組(ふなてぐみ。港に出入りする船を管理、監視する役職。水軍。)という役職のことを指しているものと思われ、その番頭として通定は三津へ移り住んだということです。
定秀寺の寺史によると、もともと北条にあったお寺が、慶長十年(1605年)三月に寺基が現在地へ移ったとされています。
ちなみに、お寺が三津に移る際に、何人ものご門徒方がお寺について行き一緒に三津へと移り住んだ、とも聞き伝えられています。現在境内にある大銀杏は、その時にご門徒方が北条から運んでくださったものです。
また、北条に定秀寺があった名残で現在でも北条には定秀寺のご門徒方が多くいらっしゃいます。
思わぬところで定秀寺の歴史の一端をみることができて、なんとも感慨深いものがありました。
秋色に色づき始めた山の景色のなか、静かなお寺で雅楽を演奏するのはなんとも気持ち良かったです♪
雅楽での法要への出仕などもお寺のお勤め(お仕事)のひとつなのです☆