境内の銀杏(いちょう)が、ついに散り終わりそうです。
きれいに色づいた葉っぱが次々と散っていき、今回の雨で一気に落ちました。
(↑ご門徒のTさん撮影☆)
一週間ほど前には、ご門徒さんがお掃除に来て下さいました。
ありがたいものです…。
「地面いっぱいの銀杏を見せてやりたくて」と、お孫さんを連れてもみじ狩りならぬ、いちょう狩りに来られました。
私がお参りから帰ってくると、目で楽しんだあとにはせっせとお掃除をしてくださっていました。
次々と落ち続ける銀杏…。
別の日にも他のご門徒さんが娘さんと一緒に来られ、やはり紅葉を楽しんだあと、お掃除をしてくださいました。
本当に有り難い限りです。
とあるご門徒さんのおうちでのこと。
お庭に紅葉があり、きれいに色づいておりました。
「お庭のもみじがきれいですね」
「毎年これを楽しみにしてるんです」とご主人。
「でも隣のお家の方には申し訳ないです。落ち葉がよくお隣に落ちるので文句を言われます…。でもお向かいさんはキレイだと喜んでくれるんです。」と。
これを聞いて確かに。と思いました。
同じ紅葉でも見る立場によって大きく見え方が変わるのです。
私たちも観光で山やお寺に紅葉や桜などを見に行くことがあろうかと思います。
紅葉狩り、お花見として見に行くにはただただ美しく思いますが、管理をする方や近所の方はなかなか大変なのかもしれません。
仏教には「一水四見(いっすいしけん)」という言葉があります。
同じ水でも、人間にとっては生きるための飲み水であり、魚にとっては住処であり、天人には宝石で彩られた池と見え、餓鬼道の餓鬼には、飲もうとした瞬間に炎に変わり、体を燃やす苦しみの存在に見える、というように、ものごとは各々の立場によって違って見えるということを示すもので、唯識学で用いられる言葉です。
境内の銀杏もただの落ち葉ではなく、見方によっては美しくみえるものです。(反対に、ただのゴミであるとも見えるかもしれません)
これは日本人独特の感性だそうです。
いわゆる「わび・さび」の心でしょうか。
禅宗の僧侶であった千利休が、茶の師匠である武野紹鴎(じょうおう)に弟子入りする時のお話です。
庭の落ち葉の掃除を命じられた利休は、一生懸命掃き掃除をしました。
ひととおり葉っぱを掃き終えたところで、利休は庭をじーっと眺めました。
そして何かを思い立ち、おもむろに庭のもみじの木を揺すって葉っぱを落とし、庭を飾り立てたそうです。
それを見た紹鴎は利休の弟子入りを認めたといいます。
わびさびを教える有名なお話のひとつです。(利休が師匠で掃除をしたのは弟子など、いろんなパターンのお話があるようです)
散っていく葉はただただいらないもの、寂しいものではなく、散っていくいのちだからこそ輝いて見えてくるものがそこにはあります。
私たちのいのちもまた散っていくいのちですが、散りゆくいのちを見つめていくとそこに光輝く世界があることに気づかされてくるものではないでしょうか。
そんなことを教えられるお話です。
今年もあと三週間ほどですね。
皆さん、風邪やインフルエンザなどに気をつけてお過ごしください☆
きれいに色づいた葉っぱが次々と散っていき、今回の雨で一気に落ちました。
(↑ご門徒のTさん撮影☆)
一週間ほど前には、ご門徒さんがお掃除に来て下さいました。
ありがたいものです…。
「地面いっぱいの銀杏を見せてやりたくて」と、お孫さんを連れてもみじ狩りならぬ、いちょう狩りに来られました。
私がお参りから帰ってくると、目で楽しんだあとにはせっせとお掃除をしてくださっていました。
次々と落ち続ける銀杏…。
別の日にも他のご門徒さんが娘さんと一緒に来られ、やはり紅葉を楽しんだあと、お掃除をしてくださいました。
本当に有り難い限りです。
とあるご門徒さんのおうちでのこと。
お庭に紅葉があり、きれいに色づいておりました。
「お庭のもみじがきれいですね」
「毎年これを楽しみにしてるんです」とご主人。
「でも隣のお家の方には申し訳ないです。落ち葉がよくお隣に落ちるので文句を言われます…。でもお向かいさんはキレイだと喜んでくれるんです。」と。
これを聞いて確かに。と思いました。
同じ紅葉でも見る立場によって大きく見え方が変わるのです。
私たちも観光で山やお寺に紅葉や桜などを見に行くことがあろうかと思います。
紅葉狩り、お花見として見に行くにはただただ美しく思いますが、管理をする方や近所の方はなかなか大変なのかもしれません。
仏教には「一水四見(いっすいしけん)」という言葉があります。
同じ水でも、人間にとっては生きるための飲み水であり、魚にとっては住処であり、天人には宝石で彩られた池と見え、餓鬼道の餓鬼には、飲もうとした瞬間に炎に変わり、体を燃やす苦しみの存在に見える、というように、ものごとは各々の立場によって違って見えるということを示すもので、唯識学で用いられる言葉です。
境内の銀杏もただの落ち葉ではなく、見方によっては美しくみえるものです。(反対に、ただのゴミであるとも見えるかもしれません)
これは日本人独特の感性だそうです。
いわゆる「わび・さび」の心でしょうか。
禅宗の僧侶であった千利休が、茶の師匠である武野紹鴎(じょうおう)に弟子入りする時のお話です。
庭の落ち葉の掃除を命じられた利休は、一生懸命掃き掃除をしました。
ひととおり葉っぱを掃き終えたところで、利休は庭をじーっと眺めました。
そして何かを思い立ち、おもむろに庭のもみじの木を揺すって葉っぱを落とし、庭を飾り立てたそうです。
それを見た紹鴎は利休の弟子入りを認めたといいます。
わびさびを教える有名なお話のひとつです。(利休が師匠で掃除をしたのは弟子など、いろんなパターンのお話があるようです)
散っていく葉はただただいらないもの、寂しいものではなく、散っていくいのちだからこそ輝いて見えてくるものがそこにはあります。
私たちのいのちもまた散っていくいのちですが、散りゆくいのちを見つめていくとそこに光輝く世界があることに気づかされてくるものではないでしょうか。
そんなことを教えられるお話です。
今年もあと三週間ほどですね。
皆さん、風邪やインフルエンザなどに気をつけてお過ごしください☆