【モーセは律法の中で、こうした女を石打ちするように命じています。とこるで、あなたは何と言われますか】イエスは身をかがめて指で地面に何かを書かれてから、このように言われました。【あなたがたの中で罪のない者が、まず石を投げつけなさい】女に石を投げようとした多くの人たちはその言葉を聞いて、女に向けていた目を自分自身に向けました。そして、自分の心にも悪や淫乱な思いがあることに気付き、恥ずかしくなってそっと石を下ろして離れて行きました。最後にその場に残ったのは女とイエスだけです。イエスは女にこのように言われました。【わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。】
【駄目よ。夫がある身で汚らわしい。見つかったら石打ちされて殺されてしまう】 ところが欲望が心を強く捕えると、バレないようにすれば良いというような思いが湧き上がってきます。女の心が淫乱な欲望で満ちてしまうのです。結局は女の行為は他人に知られることとなってしまいます。ユダヤ人たちは彼女を石打ちするために谷間に連れて行きます。女が姦淫したことを見た証人がまず石打ちを始め、それに続いて大勢の人たちが石を投げつけます。女は石に打たれて腕が折れたり、背骨が折れたり、最後は血まみれになりながら人生を終えるのです。その死体の上に人々が投げつけた石を積んでおきます。そしてそこを通り過ぎる人たちがその石を見ながら【あの人は姦淫をしたために石打ちされて死んだのよ】と言って、子供たちに姦淫の罪を教える場所になるのです。ところが、聖書ではこれとは別の方向に話が進みます。女に石打ちをしようと連れていく途中、人々の心に【イエスを試してみたい】という思いが生じるのです。【罪人の救い主であるイエスは(石を投げなさい】と言われるだろうか?】人々は女を連れてイエスのところに行きました。そしてこう尋ねました。
私は刑務所に入っている受刑者たちはもちろん、悩みのある青少年たちの心に向き合ってきました。そこでわかったことは、【してはいけない】という言葉では問題は解決しないということです。また人を暗闇から解放させる力について自分なりに研究を重ねていくうちに、聖書には人を変える力があることを知りました。
聖書を軽く読むだけでは、イエスが病人を治癒したとが、御言葉を伝えたとが、ただの逸話の記録のように見えました。ところがそれらの逸話をより深く読んでみると、その中に隠されている価値が見えてきます。
例えばヨハネによる福音書には姦淫の罪で捕らわれた女に関する話が出てます。しかしその話は単に姦淫してはならないという教訓を伝える話ではありません。じっくり読んでみると、これは心の世界で起こる出来事を描いているものであることが分かりました。その物語は一見単純なものです。最近では姦淫をしても刑務所までは入れられませんが、この聖書が書かれた当時は姦淫の罪で捕えられたら石打の形で殺されました。しかしこの話の主人公の女は殺されることを知りながらも、姦淫をしました。なぜでしょうか?それは女の心の中にある淫乱な
欲望が女を引きずっていったからです。普通に考えたなら殺されるかもしれないのです、自分を抑えられないはずはありません。
悪霊や化け物の話を耳にすることがありますが、目には見えないし確認することもできないために迷信だと思われがちです。しかし、罪を犯したり不幸になってしまったりした人たちをよく見ると、悪霊ガ彼らの心を引きずっていったという事実がはっきりと分かるのです。また人々が間違った行動から逃れようともがいても、ある力の働きにより、簡単に逃れられず苦しんでいる姿を目にします。
一般に悪霊と言えば、人に乗り移り目に余る行動をさせる、いわゆる心霊現象を連想させます。何も悪霊とは特別な人の心だけに乗り移るものではなく、すべての人の心に影響を及ぼすものです。ところが、人々は自分が何かを決定する際、自分の心に悪霊の力が働いているという事実をほとんど知らないままでいるのです。
私はもっと多くの人たちが心の世界を知ることを望んでいます。悪霊ガ人の心に対してどのように働いて心を不幸にするのか、なぜ人は夫婦喧嘩をして離婚するのか、なぜ人は自殺をするのかを知ることを切に願っています。それらのことにはほとんど悪霊ガ介入して人の心を操っているのに、それを知らないために従ってしまう人たちが実に多いからです。心の世界を知る人が増え、これ以上悪霊にだまされず、事実ではない間違った考えを捨てて、幸せに暮らす人たちが増えてくれることを願ってやみません。