私は、父の最期の瞬間までそばにいられるのは幸せなことだと思い、また父のあたたかい心に触れられることに感謝しました。話の終わりに、私は父に尋ねました。「お父さんが亡くなったら、言いつけどおりにお葬式をしますが、お父さんの魂はどこに行くのですか?」「私だって天国へは行きたいと思うけど、もう遅いんだ。何の功労もないから、御国へは行けないだろう...」父はそう言ってため息をつきました。しかし、私は幸運にも父の苦悩に対して答えてあげることができる、牧師という立場でした。私は、天国へは人間の努力や功労によって行けるのではなく、イエスの恵みによって行けるということ、私たちがどのようにして悪霊から逃げられるのか、またどのようにして罪が贖われるか...。それらのことが、努力によってではなく恩恵によってなされることなどを、2時間に渡り語りました。
『もしもお父さんが亡くなったら、お父さんの声が恋しくなると思うので録音をさせていただけませんが。兄が日本から帰って来た際にも聞かせてあげたいと思います。』すると父は『それはちょうど良かったよ。実は私も同じことを考えていたんだ。お前たちに話したいことがあるんだ』と言いました。1時間ほどかけて淡々と話をしましたが子供たちに対する深い愛情が伝わり、本当の父の姿を垣間見ることができるようでした。「私が亡くなった後も、残したわずかな財産のことでもめたりせず、兄弟仲良く暮らしなさい。それから私のお墓はお母さんの隣にしてもらいたい。最後になるが、私が死んだら、着替えは上の町に住んでいるキムさんに頼みなさい。彼は、小さいときから私が世話したから、嫌がらないはずだ」
最近の若者たちの心は目に見える世界、目の前に広がる現実だけに捕らわれています。そのように生きている彼らがもどかしく思えてなりません。父は、亡くなる前に胃潰瘍による出血で苦しみました。父は兄と一緒に暮らしていましたが、兄が日本へ行くことになったため、狭くて不便な私の家で6ヶ月間一緒に暮らした後、亡くなりました。残念ながら当時は胃酸を抑える薬や胃潰瘍の薬の効き目が良くなかったため、父は病気に負けてしまいました。ある日、父と真剣に話をする機会がありました。私は父に呼ばれて妻と一緒に部屋に入りました。父が何か話すために起き上がろうとした瞬間、吐血しました。それを見て、当時の私は『父の余命はわずかなんだ。もう死が近いのか』と本気で思いました。その部屋には父と私と妻の3人だけでしたが、皆『もう最期だ』と思いました。妻は父が吐いた血を拭き、新しい布団に寝かせてあげました。私は、以前から抱いていたある提案を思い切って切り出してみることにしました。