
深夜にこんばんは
終戦記念日の夜と成りました。
私の母が生きて居た時は 終戦の日の事を 良く話していました
その頃の母の実家は 北海道の道東の漁港で14人の大家族の長女として食べ盛りの家族の食糧を調達するのが 日課だった様です。
当時のお米は 配給制・米穀手帳が無ければ お米屋さんでも買えない時代でした。
敗戦濃厚だった頃に成るとその配給を戴くのも大変だった様で 粟・稗・芋『此れは・道東の様な 寒冷地でも収穫が出来た』が手に入れば 最高だった様です。
良く・食料を調達に着物等との物々交換『軍票や現金は×』が主だったので 富良野や旭川『当時も道内米の米処』まで兄と闇ルートを探して出かけたなのだとか・・・・
その終戦日の数日前に 列車で移動中にB29に機銃掃射を受け 命からがら列車から逃げたのだとか・・・・
憲兵等の闇米狩りも必死に逃げて旭川駅に逃げ込んで 人混みの端で 大事な放送が有るとの事で耳を澄ませて聞いたのだが 泣き声と喚き声で何だか判らない内に 隣の人が『負けた
』との一言で 『あァ 終わったんだ』と思ったのだとか・・・
その後の道東の
までの 哀願して哀願して交換して貰ったお米をリュックに入れての帰宅までは 襲撃・略奪の目を避ける為 日中は隠れて 深夜に線路をひたすら歩いたのだとか・・・ 母の暑い暑い夏の思い出と悲しい記憶が 昨日の事の様に話していました。
ですから私の生まれる前の終戦記念日の事は その母の悲しい悲しい思い出の記録なのです。 追記 08.16.04.44分
終戦記念日の夜と成りました。
私の母が生きて居た時は 終戦の日の事を 良く話していました
その頃の母の実家は 北海道の道東の漁港で14人の大家族の長女として食べ盛りの家族の食糧を調達するのが 日課だった様です。
当時のお米は 配給制・米穀手帳が無ければ お米屋さんでも買えない時代でした。
敗戦濃厚だった頃に成るとその配給を戴くのも大変だった様で 粟・稗・芋『此れは・道東の様な 寒冷地でも収穫が出来た』が手に入れば 最高だった様です。
良く・食料を調達に着物等との物々交換『軍票や現金は×』が主だったので 富良野や旭川『当時も道内米の米処』まで兄と闇ルートを探して出かけたなのだとか・・・・
その終戦日の数日前に 列車で移動中にB29に機銃掃射を受け 命からがら列車から逃げたのだとか・・・・
憲兵等の闇米狩りも必死に逃げて旭川駅に逃げ込んで 人混みの端で 大事な放送が有るとの事で耳を澄ませて聞いたのだが 泣き声と喚き声で何だか判らない内に 隣の人が『負けた

その後の道東の

ですから私の生まれる前の終戦記念日の事は その母の悲しい悲しい思い出の記録なのです。 追記 08.16.04.44分
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