本の感想

本の感想など

昭和史と幕末史 (半藤一利 平凡社と新潮文庫)

2025-01-12 12:26:05 | 日記

昭和史と幕末史 (半藤一利 平凡社と新潮文庫)

 両方とも読みやすいのですらすら読んでしまった。著者はそんなこと言ってないけど、どうも昭和の太平洋戦争の発端は幕末にあるのではないかと松本清張さんになった気分で推理を書いてみたい。幕末史は司馬さんの小説で知ってるつもりだったが、今回半藤さんの説(わかりやすく書いてある)を読んでああそうかと思うところもたくさんあった。幕末史と昭和史の開戦前後のところを読んで、総合して考えるとこうなる。

 薩摩と長州はとことん仲が悪いのに同じ政府の中枢にいた。両者はお互いを不倶戴天の敵だとみていた。日本では不倶戴天の敵でも一代限りが普通である。(中央アジアではいろいろな民族が争うので七代前の敵まで争うらしいけれど。)現にわたしにも、あの野郎ぜったい許さないからというのはいるが息子娘にまであいつをやっつけてこいとはまだ言いつけていない。一代限りである。しかし、薩摩(海軍)と長州(陸軍)は別である。何代にも渡って仲が悪かった。男たちは権力を巡って嫉妬するものである。

ところで、太平洋戦争は始まりがわかりにくい。駆け出しのお相撲さんが横綱に挑む感がある。海軍が陸軍(逆かもしれないが)と抱き合い心中すると考えるとわかりやすいのではないか。あいつ許さないとなると外の力(米国)を借り、かつ自らも犠牲にしてあいつを倒してしまおうとなる心はなんとなく理解できる。どちらが海軍でどちらが陸軍かはわからないながらどうもそんな匂いがしてくる。(東京裁判で海軍の軍人さんが裁かれなかったところを見ると、どっちがどっちかは明らかな気がする。)

小学校1,2年のころ我々はちょっとした不正を働いているクラスメートに、

「ゆーたろゆたろ、せんせーにゆーたろ。」

 (担任に言いつけるぞ)と囃したものである。この場合言いつけた児童のほうも担任からお目玉を頂戴することが多いが、それでも外の力(担任)を使ってでもそいつを懲らしめたいものである。それと同じ感覚である。

将軍大将といえども七歳の童子と同じ精神構造であることに注意しないといけない。男の権力を巡る嫉妬はなかなか厄介であることは注意しないといけない。男の嫉妬は世の中を灰燼に帰すくらいの力がある。

わたしは直接世の中を灰燼に帰すの被害を受けていないが、わたしの両親は甚大な被害を受けた。したがって間接には受けている。抱き合い心中は傍迷惑だからやめていただきたい。そこまでいかなくても、仕事をするときに身の回りで起こる権力闘争は迷惑なものである。仕事は衣食住の資を得るためのものだと思っていたが、相手を倒すために仕事をする人がいる。そういう人は、関係ない人に必要以上に高圧的に仕事をさせる。こういったはなはだ迷惑なひとが、組織のトップに立つことが多い。わたしはこういった迷惑な人に自分の大事な時間をだいぶん奪われたなーと思いながらこの二冊の本を読んだ。


映画 レミゼラブル②

2025-01-11 20:49:10 | 日記

映画 レミゼラブル②

 なぜこの題材が2012年に映画化されたのかが疑問であった。原作は1860年代の作品である。(わが国では1900年黒岩涙香訳が名文だったのでずいぶん読まれたらしい。)波乱万丈の人生であった主人公の情(なさけ)と、法律を厳格に執行しようとする者との争いの物語として私は読んだ。原作はどうも法律を厳格に執行しようとする者のほうの分が悪い書き方であった。(そういえば法律を厳格に執行しようとする者は司馬遷の史記でも(法家の韓非子)好意的に書かれていない。)

しかし、この映画の製作者監督も法律の執行云々などは付け足しであり、話をドラマチックにするためだけのエピソードであり、実は貧困に重きを置いて作っているように見える。もし製作者の意図を重んじるなら映画の意味は少々異なってくる。資本主義の草創期には貧困が蔓延していたといいたいのである。同様にこれから貧困の時代が来るといいたいのではないか。

 マルクスの資本論も1860年代のロンドンの貧困を観察して書かれたという。ユゴーのレミゼラブルも1860年代のパリの貧困を観察して書かれたのは間違いないであろう。(1900年の黒岩涙香東京に貧困が蔓延していたのかどうかは知らない。)マルクスのほうは貧困撲滅の処方箋を提示し(ただし効くかどうかは不明であるが)、ユゴーのほうは貧困の中で巧みに生き抜いていく男をドラマチックに描いたということではないか。(ここで主人公がどうして囚人から市長にまで成り上がったのかの説明がないのが残念である。そんなにうまいこと行くものなのか?どうもフランス映画には、この手の説明不足が多いような気がする。)

 こう考えるとこの映画は、2012年に資本主義の草創期と同じような貧困の時代が来ますよと暗示しているのか。アートはその時代の人々の心の反映であるはずで、そうでなければそのアートはヒットしない。このレミゼラブルが多少なりともヒットしたのであるから、それは人々の心にこれから貧困の時代の予感がある(あった)ということではないか、わたしはそのように疑う。

  2012年前後には、アメリカEUが極端な緩和をやり遅れて日本も金融緩和に乗り出した頃である。それはいいことだという意見とやむをえないという意見とやってはいけないという意見が拮抗していた時代である。やってみたところ、プロの人々はどう見ているのか知らないが少なくとも庶民は大した変化がなく拍子抜けした時代でもある。

2012年からもう12年経った。干支が一巡したときにリバイバルが出て、同じ貧困の場面が出てきた。前回見たときは何か作り物臭かったが、今回はややリアルに見えたような気がする。


映画 レミゼラブル

2024-12-31 00:38:17 | 日記

映画 レミゼラブル

 この社会派の文芸作品を、ミュージカルにするのは場違いな印象であった。ちょうど寿司にソースを掛けたような違和感がある。ミュージカルは恋愛とか別れとかの感情に訴えるものがよろしくて、これから社会をこう変えたいと考えているまじめな人が主人公ではどうもいただけない。この作品は、論理的に読んで批判する人賛成する人世の先を考える人いろいろだろうから、論理的なセリフが必要でこのように音楽に載せてはいけないような気がする。その意味では評判高いけど失敗ではないかと思う。同じ場面構成で考え抜かれたセリフを繰り出すのならいろいろ考えながら鑑賞できたと思う。

見ながら考えたことは、なぜこれでもかというほどしつこく「貧困」を描いたかということである。(空腹の人を結構な体格の俳優さんが演じたり、空腹の人がエライ馬鹿力を発揮したりするのはまあやむをえないとしてであるが。)おそらく原作のテーマは、「法とは何か」であったはずである。王様を無しにしたのであるから社会のお手本が法律になってしまうところで発生する問題点を列挙するというのが原作の意図ではないか。それを、貧乏だから革命やむなしの雰囲気つくりにしたいのか人々の貧乏を強調している。この時代の実際は知らないが、果たしてこうであったのか。

わたしは、映画の製作者監督には、現代の貧困と重ね合わせようとする意図があるのではないかと疑っている。髪の毛を売ったり歯まで売ったりするほどの貧困に相当するものがこれから起こるんですよと言いたのではないか。フランスの王室が極端なぜいたくをしたあとの国民の貧困をここまでしつこく描くのはなぜかとか、貧困の原因は重税だけではなく貨幣発行によるインフレだったんだろうなと想像しながら、この少し苦情を言いたくなる映画を見た。たぶん音楽だけ映像だけを楽しむ分には高い評価がつくであろうしそのことに異存はない。


大江戸曲者列伝(野口武彦著 新潮新書 2006年)

2024-12-27 22:29:20 | 日記

大江戸曲者列伝(野口武彦著 新潮新書 2006年)

 主に江戸城内のお武家のゴシップを調べて書いた本である。面白さを狙った軽い本だと思っていたが、なかなか考えさせられる人物事件が登場して現代を考えるヒントが一杯であった。出版された2006年の日本はまだバブルに浮かれたころの記憶が残っている。役所の中は遊泳術巧みな人が出世する(実際はどうであったかは知らないが)との定説が流布していたころに書かれた本である。主に江戸城のお武家の城内遊泳術を描こうとしている。

 おおこんな人今もいるなーと思いながら読んでいくと、仲間同僚のいじめに腹を立てて城内でその仲間同僚に切りつけたお武家の話があった。(浅野内匠頭とはまた別件)私はお武家のようにプライドの高い人はいじめをしないものと思い込んでいた。どうもそうでもないようで江戸城内のこれから出世する誇り高い人々の間にもごく普通にあったようである。なぜ忠臣蔵のようにこれを戯曲にして庶民が見て楽しむようにしなかったのか。(たぶん幕府が止めたのであろうが。)

 このくだりを読むうちに、なぜ日本でいじめが多いのかがやっとわかった。日本ではいじめられてもそれを辛抱するように教育するからである。アメリカの軍隊の中でもいじめはあるようである(映画フルメタルジャケットでこれが描かれてやっと我々も現実を知った。)しかしあまり辛抱しないからたちどころに返り討ちに合う。(この映画でもそこを描いている。)いじめを辛抱しないように教育するといじめは減ると思われる。ただし社会は大混乱するだろうが。

 そのほか、陽明学者の松崎こう道(こうはリッシン偏に兼、大塩平八郎の時代の人)が登場している。記憶違いでなければ、この人は永井荷風の母方のおじいさんにあたる人で、荷風と三島由紀夫は親戚というから、三島にとっても血のつながりのある人かもしれない。陽明学は行動を重視するらしい。荷風を見て陽明学を想起するのは些か無理があるが、三島を見て陽明学とはどんなものかよくわかる。三島さんはこの松崎さんの血縁に違いない。

 そんな連想もこの本を読みながら楽しめた。


昭和史(半藤一利著 平凡社)知らなかった

2024-12-22 21:49:59 | 日記

昭和史(半藤一利著 平凡社)知らなかった

 この本で初めて知ったことに、あろうことか1945年4月13日にルーズベルトが亡くなったことの弔辞を当時の首相が送ったというのです。たぶん講和交渉を少しでも有利にという考えだったのでしょうが、政治の恐ろしさをこれほど的確に表す事象はありません。国内向けには「一億火の玉」とか言いながら、敵国には弔辞を送り付ける。もちろん何の役にも立ちませんでした。たぶん足元を見抜かれただけだと思います。この分では今の政治にも言ってることとやることとが全く別という同様の案件があるかもしれないと思うと、何もかも信用できなくなります。わたくしは、マスコミを信用するなという人がいるのをマスコミは間違えるという意味にとっていたけど、そうでもない。初めから言ってることとやることとが全く別ならもうどうしようもない。

 ほかにも、7月26日にポツダム宣言が発せられたとの記述があります。これはどこかで聞いて薄々知っていたことですが、著者はソ連の仲介に期待したため受諾が遅れたとしています。わたしはクーデタを恐れて態度を決められなかったこともあるのではと思います。この時代なら大いにありえただろう。この時の総理大臣、首脳は大変だったろう。

 驚くことに、このポツダム宣言の内容は新聞に載ったようです。(28日付朝刊)新聞は戦意高揚のための文を添えてこれを報じたとありますが、人々はそれをどんな思いで読んでいたのかを知りたいものです。「あほらし」と思うのが普通だと思うのですが、著者はここは黙しています。

 その新聞の戦意高揚の文が「笑止・・・・・自惚れを撃墜せん、聖戦を飽くまで完遂」といった美文なのです。今のわれわれから見ると、美文でヒトを酔わせてヒトの心を支配するとはそれこそ「笑止」なことです。同じころの永井荷風の日乗も美文で書かれていますが、こちらは本人が読み返すかせいぜいが好き者が読んで楽しむものですから害はないでしょう。しかし新聞など一般に公表される美文は気をつけねばいけません。

 昭和20年までは、日本人は美文を味わう環境にいたようです。しかしGHQによって漢文を味わうことが制限されたのは返す返すも残念なことです。新聞やラジオは普通の話し言葉、日記や仲間内の会話には格調高い美文を使うともう少し我々の生活も豊かなものになったのではないか。

 GHQが漢文を制限したのは、これによって日本人の戦意が高まったと見たかららしい。たしかにそんなとこあるけれども。(この本にはそこまでは書いていない。)