柳橋新誌(成島柳北)を見る④ なにか行動を起こすようなヒトではないような気がするんですけど
加藤周一さんの日本文学史序説下の343ページ(平凡社版)に「柳北においては佐幕であり・・・・・・感覚的文化と主人に対する忠誠の武士的価値の経験である。」とあります。柳北さんの全著作を読めば、特にその早かった晩年の新聞記事(この人朝野新聞の記者になっている。ずいぶん面白い記事じゃないかと思う。これを採録して脚注を付ければ結構売れる本になりそうな気がする。)を読めばそうなんでしょうが、この柳橋新誌の特に若い時代の第一篇第二篇を読む限りではこの人佐幕でもなければ、忠誠心のある武士とはとても思えない。第三篇の序は讒謗律で牢屋にいれられた前後に書かれたもので多少の毒(政治批判)が見られるが、それでも忠誠心とか武士的価値とかとはあまり関係が無いように見える。ちょっと反骨精神はあった人だと思うけれど。この第一篇第二篇を含んで明治政府が発禁処分にしたのはいくら何でもナイーブにすぎないか。
今はいなくなったがこういう戯れ文を書く人は、おれはこんだけ(説教臭い)中国の古典を踏まえながら冗談で面白く今目の前におこっていることを書いて見せることができるぞというマウント志向と、読者を喜ばせてやろうというサービス精神の同居した人だと思う。(読み手は、そんな古典の一文があったな、とかそんな一文があるのかという勉強と、ああ面白いという愉快な幸せな気持ちと、世間の人情とはこんなものかという勉強が同時にできる。)サービス精神のあるマウント志向だから反骨精神はあるけど、権力志向とまでは言えない。反骨精神が過ぎて牢屋に4か月入ることになったけど、徒党を組んで明治政府打倒を叫んで自分が次の新政府に入り込もうというところまではとてもいかなかったヒトだと思う。
加藤周一さんは、「江戸文学の修辞法の遺産が、新聞紙上で鋭利な風刺と辛らつな皮肉の武器となり得ることを、証明するものであった。」と書いておられる。皮肉を言っただけで牢屋に入るのかと思うと明治時代は生きるのが難しい時代であったように見える。全部を通読できていないから断言はできないが、柳北新誌は楽しい皮肉に満ちあふれているのであって、政府批判は極めて薄いように見える。
多分こういうことだと思う。江戸時代の御政道は過酷なもので、なんとか息抜きをする方法として編み出したのが江戸文学の修辞法なんでしょう。この修辞法で書かれたものことごとくが反幕府、反政府ではないのにこの修辞法を使うものは何かと目を付けられ、小さなことでも嫌疑を受けることになった、またはないことでも嫌疑をうけたと。その被害にあったのが柳北さんじゃないのか。柳北さん今に生きておれば縦横に筆をふるっておおいに笑わせてくれただろうに残念なことです。
毒は饅頭の中にいれた微量の塩であっておいしさのもとである。この塩無くては饅頭はおいしくない。だからと言っていくら饅頭を食べたからと言ってこの毒に当たるということはないであろうに、時の政府は神経質にもこれを取り締まったように見える。この笑いと御政道批判の関係はもっと研究されるべきことで、なぜ御政道批判を微量に混ぜるとおかしさが増加するのか。たぶん権威権力あるものを引きずり落とすことは笑いの種になるんだろうと思うが、言ってるだけなんだからほっとけばいいものをと思ってしまう。
柳橋新誌でも薩長の高官が柳橋で今でいうストーカーみたいなことをして田舎ぶりを発揮するのを笑い者にしている。さらには京から登ってきたお公家さんも妓の言葉を借りて「お公家さんが、花札造りの内職をしなくなったのでこの頃花札の値段が上がっている。」と笑いの種にしている。このくらいの皮肉は一緒になって笑ってすませばいいのに。
そう言えば、古代中国には偶語というものがあったそうだ。偶語というからには二人でする漫才みたいなもんだと想像される。司馬遷は、この偶語を参照して史記を書いたのではないか。でなければ、例えば鴻門の会のところで、漢の高祖がどちら向きに座ったかなんてその場に居合わせたようなことはとても書けないだろう。偶語は都市生活の気詰まりを解消するために作られた娯楽と想像される。やはり毒を含んでいたようで秦の始皇帝はこれを禁じたそうである。都市生活にはどうしても毒を含んだ笑いが必要なようである。柳橋新誌はそのかなり大事な笑いを提供する物であったと思う。しかも上質であった。