本の感想

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断腸亭日乗 (永井荷風 岩波版)を読む㉛ 余談

2022-11-28 15:00:14 | 日記

断腸亭日乗 (永井荷風 岩波版)を読む㉛ 余談

 司馬遼太郎さんの小説のどこかに、永井某という武将が徳川家康の部下でかつ寵童であったために(そのコネで)出世して代々旗本の家として残りそれが、永井荷風を生んだ。先祖と子孫が全く異なる分野で名をあげることはまずないことであるというお話が書いてあった。

 もし小耳にはさんだお話で荷風さんと三島由紀夫さんが姻戚関係にあるなら、この武将の子孫は2人の名をあげる人を生んだことになる。しかも、表面に現れた現象としてはお二人の人生は全くことなった生き方をした文筆家であるから、永井家はなかなかすごい血脈と言うことになる。(わたしはお二人はご自分の人生そのものを劇的にするという意味では同じ体質であるような気がする。)

 この話を聞いて、だったら老子の孫だったかひ孫だったかが将軍になったのはどうなんだとか、書道家で多分軍閥として大きかった有名な顔真卿は孔子の弟子の顔回の子孫だけどそれはどうなんだとか一杯疑問が湧いてくる。

 ここで話が変なほうへ行くけど、老子の説は軍事哲学としても読めるんじゃないかと思っている。水は低い方へ流れる、とか水は方円の器にしたがって形を変えるとかは、水を軍隊と読めば軍隊を指揮する指揮官の心得と読める。(孫氏には兵の形は水に象(かたど)る。とあります。)有名な和光同塵も、孫子の弱い振りをして、敵を誘い込む作戦と同じと見ることができます。ならば老子は軍隊の指揮官であったかもしれない。その子孫が将軍になるのは別におかしなことでもない。

 ここで荷風さんのご先祖の永井さんだけど、およそ武将とは言えないような案外気弱で自分の作った美の世界の中に沈み込むようなヒトであったかもしれない。それが家康さんの寵童であったというだけで他のものが気を利かせて手柄を立てさせた。公式文書には手柄だけが記載されていたのでご先祖はめでたく旗本になれた。手柄を立てさせた方の武将は、公式文書には残らなかったが家康さまの覚えめでたくこれまた出世を遂げた。どうもそんな感じがする。

 

一週間ほど休みます。


柳橋新誌(成島柳北)を見る⑤ これは読む落語

2022-11-27 17:54:03 | 日記

 柳橋新誌(成島柳北)を見る⑤ これは読む落語

  落語を文章に書き写した本を電車の中で読もうとして持って歩いたけど、アンマリ面白くなかった。あれは耳で聞いて楽しむ芸で語り口が面白い。なんでも芸は生で見るのが一番楽しい。書き写したものは、するめのようになってるからせめて火であぶるなどの操作がいる。

 その点柳橋新誌は、見て面白い。多分語り口にすると今度は全く面白くなくなるし、現代語訳にしても全く面白くない。その理由を考えていたが、やっと分かった。現代語訳すると「女将は、まず客の利巧馬鹿か持ってるか持ってないかを見定める。」この内容は、そういうところへ行かない私でもきっとそうなんだろうなと分かる。キット馬鹿で持ってるのが上客なんだろう。別にありがたいご託宣でも新知識でもない。

 ここが、原文ではこうなっている。カッコがきカタカナはルビになっている。「女将軍・・・・・直ちに其の貧富(アルナイ)と慧愚(リコウバカ)を看取し了す(ミテトル)」ここでは、漢語の重々しさとルビで示される俗語との落差が大きいところが笑いを誘う。文章の意味ではなく漢語と俗語の差が面白いのである。本を読みながらげらげら笑うというのは、あまりしたことの経験です。

 私は、今まで文章は「面白い=役に立つまたは立つかもしれない」ということで、役立たないものは面白くないと思ってきた。イソップの自分の角を自慢している鹿の話は、読んだとたんにオオ自分も気を付けようと本気で思った。ありとキリギリスの教訓は、今に至るまで堅く守っている。(この話の本意は勤労と貯蓄を奨励する内容とはちょっと違うらしいけど)その意味では、この本は役立たないけど面白いしかも耳で聞いて面白いのではなく読んで(見て)面白い。

 全部が役立たない訳ではない。読んでしばらくして、この人旗本だったからこんな優雅な生活していたとばっかり思っていたが優雅な人は他にも一杯いそうであることに気が付く。そうして引きこもりとか過労死とかブラック企業とかの前身になるものは登場しないのである。(かろうじて書いてないけど船宿自体がブラックかもしれない。)お花畑のような結構な時代だったのではないかとの印象を受けた。今からでも遅くない、生噛りの難しい漢語に俗語のルビを振って仲間内でゲラゲラ笑う生活を是非送りたいのもである。


柳橋新誌(成島柳北)を見る④ なにか行動を起こすようなヒトではないような気がするんですけど

2022-11-25 13:02:23 | 日記

 柳橋新誌(成島柳北)を見る④ なにか行動を起こすようなヒトではないような気がするんですけど

 加藤周一さんの日本文学史序説下の343ページ(平凡社版)に「柳北においては佐幕であり・・・・・・感覚的文化と主人に対する忠誠の武士的価値の経験である。」とあります。柳北さんの全著作を読めば、特にその早かった晩年の新聞記事(この人朝野新聞の記者になっている。ずいぶん面白い記事じゃないかと思う。これを採録して脚注を付ければ結構売れる本になりそうな気がする。)を読めばそうなんでしょうが、この柳橋新誌の特に若い時代の第一篇第二篇を読む限りではこの人佐幕でもなければ、忠誠心のある武士とはとても思えない。第三篇の序は讒謗律で牢屋にいれられた前後に書かれたもので多少の毒(政治批判)が見られるが、それでも忠誠心とか武士的価値とかとはあまり関係が無いように見える。ちょっと反骨精神はあった人だと思うけれど。この第一篇第二篇を含んで明治政府が発禁処分にしたのはいくら何でもナイーブにすぎないか。

 今はいなくなったがこういう戯れ文を書く人は、おれはこんだけ(説教臭い)中国の古典を踏まえながら冗談で面白く今目の前におこっていることを書いて見せることができるぞというマウント志向と、読者を喜ばせてやろうというサービス精神の同居した人だと思う。(読み手は、そんな古典の一文があったな、とかそんな一文があるのかという勉強と、ああ面白いという愉快な幸せな気持ちと、世間の人情とはこんなものかという勉強が同時にできる。)サービス精神のあるマウント志向だから反骨精神はあるけど、権力志向とまでは言えない。反骨精神が過ぎて牢屋に4か月入ることになったけど、徒党を組んで明治政府打倒を叫んで自分が次の新政府に入り込もうというところまではとてもいかなかったヒトだと思う。

 加藤周一さんは、「江戸文学の修辞法の遺産が、新聞紙上で鋭利な風刺と辛らつな皮肉の武器となり得ることを、証明するものであった。」と書いておられる。皮肉を言っただけで牢屋に入るのかと思うと明治時代は生きるのが難しい時代であったように見える。全部を通読できていないから断言はできないが、柳北新誌は楽しい皮肉に満ちあふれているのであって、政府批判は極めて薄いように見える。

 多分こういうことだと思う。江戸時代の御政道は過酷なもので、なんとか息抜きをする方法として編み出したのが江戸文学の修辞法なんでしょう。この修辞法で書かれたものことごとくが反幕府、反政府ではないのにこの修辞法を使うものは何かと目を付けられ、小さなことでも嫌疑を受けることになった、またはないことでも嫌疑をうけたと。その被害にあったのが柳北さんじゃないのか。柳北さん今に生きておれば縦横に筆をふるっておおいに笑わせてくれただろうに残念なことです。

 毒は饅頭の中にいれた微量の塩であっておいしさのもとである。この塩無くては饅頭はおいしくない。だからと言っていくら饅頭を食べたからと言ってこの毒に当たるということはないであろうに、時の政府は神経質にもこれを取り締まったように見える。この笑いと御政道批判の関係はもっと研究されるべきことで、なぜ御政道批判を微量に混ぜるとおかしさが増加するのか。たぶん権威権力あるものを引きずり落とすことは笑いの種になるんだろうと思うが、言ってるだけなんだからほっとけばいいものをと思ってしまう。

柳橋新誌でも薩長の高官が柳橋で今でいうストーカーみたいなことをして田舎ぶりを発揮するのを笑い者にしている。さらには京から登ってきたお公家さんも妓の言葉を借りて「お公家さんが、花札造りの内職をしなくなったのでこの頃花札の値段が上がっている。」と笑いの種にしている。このくらいの皮肉は一緒になって笑ってすませばいいのに。

そう言えば、古代中国には偶語というものがあったそうだ。偶語というからには二人でする漫才みたいなもんだと想像される。司馬遷は、この偶語を参照して史記を書いたのではないか。でなければ、例えば鴻門の会のところで、漢の高祖がどちら向きに座ったかなんてその場に居合わせたようなことはとても書けないだろう。偶語は都市生活の気詰まりを解消するために作られた娯楽と想像される。やはり毒を含んでいたようで秦の始皇帝はこれを禁じたそうである。都市生活にはどうしても毒を含んだ笑いが必要なようである。柳橋新誌はそのかなり大事な笑いを提供する物であったと思う。しかも上質であった。


柳橋新誌(成島柳北)を見る③ 解説者の解説に異議あり

2022-11-24 09:56:13 | 日記

 柳橋新誌(成島柳北)を見る③ 解説者の解説に異議あり

 「嗚呼、人情の翻覆する、唯だ金のみ。金や能く痴を変じて慧と為し、醜を化して美と為す。」(349ページ)また「柳橋今日の盛を致す所以の者は、即ち是れ転の一字に頼るのみ。」(転とは転び芸者の意味、芸を売るのではなく転びによって柳橋は栄えるようになったとしている。)(354ページ)を、解説者は、二十四、五歳の青年が世の中の現実に幻滅したとしているがここには大きく異議ある。

 この2文の前後を詳しく読んだが、成島さんはカネが万能の薬であって、はしため(女へんに卑しい)に妓がカネを渡すと途端に(はしためが)愛想良くなって妓のために便宜を図るさまや、本来(妓の)技を聴くための場であるのに、(客に中に)転を楽しむものが増えてきたのでそれに応じることによって柳橋は栄えるようになったと淡々と書いてある。

 決してそれはいけないことだとの文脈ではない。ただし転びによって柳橋が栄えるようになったのは望ましいことではないとの文脈で読めるが、絶対けしからん許せないとまでは言っていない。笑ってこれも時代の変化ですなーという気持ちではないか。聖人の教えだけではなく稗史も含めてあっちこっちから様々な引用をしているから様々な知識がこの人にあった。当然人情その他についても成熟した見方をしていたはずで、今の二十四、五歳の青年とは全く違うのではないか。当時の武士の家庭教育はだれがどのようにしたのかは知らないが、今のようにできるだけ遅くナイーブに育てることをしなかったと考えられる。人は早くに亡くなることが多かった。現に成島さんも十八歳で家督を継いだ。武士の子はゆっくり育てるわけにはいかなかったとみられる。

 画家としても有名な柳沢き園(きはサンズイに基)は、1700年代前半のヒトで二千石の家老職を七歳で継いだというが、その二十歳の時に書いた「ひとりね」という随筆には、「世の中のたのしみというもの知らずにくらし、やがて白髪にあたまの成りてから残念がるも、いと口おしからずや」とある。(わたしは、高校の古文の教材にこのひとりねを使うべきだと本気で思っている。人生の楽しみを先送りさせると人生そのものをついには失う。今の社会制度は楽しみを先送りすることがとても良いことだとの前提でできている。学校の先生はこの道徳を説いている。ではその先生は人生楽しんでいるのか、それがいいことだと本気で思ってるのか。山のような登校拒否が起こる原因はここにあると思う。)この人の人生に対する成熟した見方は、江戸時代を通じて少なくとも武士階級の一部にはあったと思う。もちろん庶民にもあったのではないか。この時代の人は旗本退屈男だけではなかった。

 解説者はご自分の二十四、五歳の頃はどう考えていたかを参照して成島さんは世の中の汚さに幻滅したのでこれらの言葉がでたとお考えだと思う。わたしは、成島さんはすでに書物のうえの知識ではあるが世の中の裏表に通暁しており、やっぱりそうであったと確認のために、また読者にも確認してもらうためにこの言葉が出たと思う。

この前篇を書いた時期はまだ将軍侍講を仕事にしている時期で、遊ぶカネがどこから出ていたかわからない。(後篇は幕府の要職を歴任したあと、それでも前篇のときに2000両(今の一億数千万円か)を費やしたという。もらった賄賂が積みあがっていたのか。)ここが知りたいところである。


 柳橋新誌(成島柳北)を見る② これは連歌の会みたいなもの

2022-11-23 15:28:04 | 日記

 柳橋新誌(成島柳北)を見る② これは連歌の会みたいなもの

 どうも現代のエッセイのように起承転結があって、通読してなるほどと思わせるという風に書いてあるものとは全く異なる書き方をしている。二十行ぐらいの節それぞれがほぼ同じ内容の繰り返しになっている。内容は、お客の質が低下して田舎者が増えてきたこと、妓の質が落ちてきたことをあの手この手で書き綴っている。これはサザエさんの四コマ漫画が連続しているようなもんで、少しずつ違うと言えば違うが全体としてのんびりしたほのぼのとした情緒を表現しているのと同様、同じようなことを書き連ねて全体としてある雰囲気を表そうとしているエッセイである。

 しかし詳しく読むと面白いところがあちこちにあって、それは第一に文章のリズム第二に古典を引用してお互い(書き手読み手)の博識を確認する姿勢がみられるところである。さらに古典を字義通り用いないで一ひねりして用いるから何とも言えない諧謔が出てくる。これをみんなで楽しむのであるから、連歌の会俳句の集まりみたいなものと見られる。全員参加のお笑いの会みたいなものと想像される。

ワープロでは文章を書き写すことが困難になっているので部分だけしかできないが、例えば明治時代になってから新政府は幕府時代は駄目であった役人が遊里に行くことを大目に見るようになった。それで高官が妓楼へしばしば訪れるのを「駟馬高蓋、時あって蘇小の家を三顧す。」と表現している。蘇小の家とは中国の有名な妓女の家。これでは、仲間内だけで通じる隠語をつかって遊んでいる風にも見えるし気障だとも思う。しかし文にリズムがあって中身はつまらないことでも、駟馬高蓋に乗ってる人は立派な人でやってることも立派なことであるかの如き錯覚を起こさせて、読み終わって半日ほどしてなーんだと読み手に思わせる効果がある。文というのはかくもヒトをだますものですよと暗に言ってるのかもしれない。

 文にリズムがあるのはこの人が漢文の将軍侍講まで勤めた人であること、オカタイ孔孟の教えだけではなく通俗本まで読み込んだ人であることが理由だろう。そのほかこの一文からだけでも幕府の文化政策には批判的であったこと、その幕府の時代にうかうかとまたはうまうまと乗せられて真面目にやってきたヒトを笑い飛ばしていること、そのあとに続く明治の高官も笑いの種にしようとしていることなどが分かる。

 私は、むかし酒井抱一の事績を読んでこの人姫路の殿様の弟だから悪くてもそれなりの地位が得られてそれなりの生活ができるはずなのに何で絵描きさんになったのか不思議で仕方なかった。いかに絵がうまくともアートは今も昔も売り物にならないところがあるのでそれで生活を立てることは難しいだろうにと思っていた。

抱一さんは、不自由な生活を嫌ったからというのもあるけど、すでにその時幕府の命運が短いことを直感していたと思う。成島さんは明治になってから書いているけど、この人もすでに幕末に命運が短いことを直感していたのではないか。それは真面目な人では大きな組織運営はできませんよとこのエッセイの中で繰り返し繰り返し言っていることから推察することです。

幕府が弱ってきたのは、その基盤が農村の上に乗っかっていてこれを他の例えば工業資本や商業資本の上に乗るように改革できなかったことだけにあるのではない。幕府官僚に変に真面目な生活を強要するあまり倫理を求めて肝心のおカネの流れを見る目を失わしめたところが原因ではないか。ある程度融通の利く生活を幕府官僚にさせれば、細かいところでのヒトの心も理解できおカネの流れも把握できたので農村の上に乗る体制を変えることまではできないにせよもう少し幕府を長持ちさせることができたのではないか。ヒトの心が分かることは、おカネの流れを理解できることにつながることは成島さんの本をよんでいると何となくわかってくる。