本の感想

本の感想など

映画 レミゼラブル

2024-12-31 00:38:17 | 日記

映画 レミゼラブル

 この社会派の文芸作品を、ミュージカルにするのは場違いな印象であった。ちょうど寿司にソースを掛けたような違和感がある。ミュージカルは恋愛とか別れとかの感情に訴えるものがよろしくて、これから社会をこう変えたいと考えているまじめな人が主人公ではどうもいただけない。この作品は、論理的に読んで批判する人賛成する人世の先を考える人いろいろだろうから、論理的なセリフが必要でこのように音楽に載せてはいけないような気がする。その意味では評判高いけど失敗ではないかと思う。同じ場面構成で考え抜かれたセリフを繰り出すのならいろいろ考えながら鑑賞できたと思う。

見ながら考えたことは、なぜこれでもかというほどしつこく「貧困」を描いたかということである。(空腹の人を結構な体格の俳優さんが演じたり、空腹の人がエライ馬鹿力を発揮したりするのはまあやむをえないとしてであるが。)おそらく原作のテーマは、「法とは何か」であったはずである。王様を無しにしたのであるから社会のお手本が法律になってしまうところで発生する問題点を列挙するというのが原作の意図ではないか。それを、貧乏だから革命やむなしの雰囲気つくりにしたいのか人々の貧乏を強調している。この時代の実際は知らないが、果たしてこうであったのか。

わたしは、映画の製作者監督には、現代の貧困と重ね合わせようとする意図があるのではないかと疑っている。髪の毛を売ったり歯まで売ったりするほどの貧困に相当するものがこれから起こるんですよと言いたのではないか。フランスの王室が極端なぜいたくをしたあとの国民の貧困をここまでしつこく描くのはなぜかとか、貧困の原因は重税だけではなく貨幣発行によるインフレだったんだろうなと想像しながら、この少し苦情を言いたくなる映画を見た。たぶん音楽だけ映像だけを楽しむ分には高い評価がつくであろうしそのことに異存はない。


大江戸曲者列伝(野口武彦著 新潮新書 2006年)

2024-12-27 22:29:20 | 日記

大江戸曲者列伝(野口武彦著 新潮新書 2006年)

 主に江戸城内のお武家のゴシップを調べて書いた本である。面白さを狙った軽い本だと思っていたが、なかなか考えさせられる人物事件が登場して現代を考えるヒントが一杯であった。出版された2006年の日本はまだバブルに浮かれたころの記憶が残っている。役所の中は遊泳術巧みな人が出世する(実際はどうであったかは知らないが)との定説が流布していたころに書かれた本である。主に江戸城のお武家の城内遊泳術を描こうとしている。

 おおこんな人今もいるなーと思いながら読んでいくと、仲間同僚のいじめに腹を立てて城内でその仲間同僚に切りつけたお武家の話があった。(浅野内匠頭とはまた別件)私はお武家のようにプライドの高い人はいじめをしないものと思い込んでいた。どうもそうでもないようで江戸城内のこれから出世する誇り高い人々の間にもごく普通にあったようである。なぜ忠臣蔵のようにこれを戯曲にして庶民が見て楽しむようにしなかったのか。(たぶん幕府が止めたのであろうが。)

 このくだりを読むうちに、なぜ日本でいじめが多いのかがやっとわかった。日本ではいじめられてもそれを辛抱するように教育するからである。アメリカの軍隊の中でもいじめはあるようである(映画フルメタルジャケットでこれが描かれてやっと我々も現実を知った。)しかしあまり辛抱しないからたちどころに返り討ちに合う。(この映画でもそこを描いている。)いじめを辛抱しないように教育するといじめは減ると思われる。ただし社会は大混乱するだろうが。

 そのほか、陽明学者の松崎こう道(こうはリッシン偏に兼、大塩平八郎の時代の人)が登場している。記憶違いでなければ、この人は永井荷風の母方のおじいさんにあたる人で、荷風と三島由紀夫は親戚というから、三島にとっても血のつながりのある人かもしれない。陽明学は行動を重視するらしい。荷風を見て陽明学を想起するのは些か無理があるが、三島を見て陽明学とはどんなものかよくわかる。三島さんはこの松崎さんの血縁に違いない。

 そんな連想もこの本を読みながら楽しめた。


昭和史(半藤一利著 平凡社)知らなかった

2024-12-22 21:49:59 | 日記

昭和史(半藤一利著 平凡社)知らなかった

 この本で初めて知ったことに、あろうことか1945年4月13日にルーズベルトが亡くなったことの弔辞を当時の首相が送ったというのです。たぶん講和交渉を少しでも有利にという考えだったのでしょうが、政治の恐ろしさをこれほど的確に表す事象はありません。国内向けには「一億火の玉」とか言いながら、敵国には弔辞を送り付ける。もちろん何の役にも立ちませんでした。たぶん足元を見抜かれただけだと思います。この分では今の政治にも言ってることとやることとが全く別という同様の案件があるかもしれないと思うと、何もかも信用できなくなります。わたくしは、マスコミを信用するなという人がいるのをマスコミは間違えるという意味にとっていたけど、そうでもない。初めから言ってることとやることとが全く別ならもうどうしようもない。

 ほかにも、7月26日にポツダム宣言が発せられたとの記述があります。これはどこかで聞いて薄々知っていたことですが、著者はソ連の仲介に期待したため受諾が遅れたとしています。わたしはクーデタを恐れて態度を決められなかったこともあるのではと思います。この時代なら大いにありえただろう。この時の総理大臣、首脳は大変だったろう。

 驚くことに、このポツダム宣言の内容は新聞に載ったようです。(28日付朝刊)新聞は戦意高揚のための文を添えてこれを報じたとありますが、人々はそれをどんな思いで読んでいたのかを知りたいものです。「あほらし」と思うのが普通だと思うのですが、著者はここは黙しています。

 その新聞の戦意高揚の文が「笑止・・・・・自惚れを撃墜せん、聖戦を飽くまで完遂」といった美文なのです。今のわれわれから見ると、美文でヒトを酔わせてヒトの心を支配するとはそれこそ「笑止」なことです。同じころの永井荷風の日乗も美文で書かれていますが、こちらは本人が読み返すかせいぜいが好き者が読んで楽しむものですから害はないでしょう。しかし新聞など一般に公表される美文は気をつけねばいけません。

 昭和20年までは、日本人は美文を味わう環境にいたようです。しかしGHQによって漢文を味わうことが制限されたのは返す返すも残念なことです。新聞やラジオは普通の話し言葉、日記や仲間内の会話には格調高い美文を使うともう少し我々の生活も豊かなものになったのではないか。

 GHQが漢文を制限したのは、これによって日本人の戦意が高まったと見たかららしい。たしかにそんなとこあるけれども。(この本にはそこまでは書いていない。)


昭和史(半藤一利著 平凡社)一撃講和説

2024-12-21 22:46:03 | 日記

昭和史(半藤一利著 平凡社)一撃講和説

終戦直前までなぜ日本軍は頑張ったかの説明はかなり腑に落ちた。一撃講和に持ち込むために敵に大きな痛手を与えておくためであるとの説明であった。たぶん日本軍にはハナから勝とうという気はなかったのであろう。五分五分かうまくいけばやや優勢くらいの時に講和に持ち込むのが目的であろう。(日露戦争がそうであったらしい。一遍いい目に合うと次もいい目に合うに相違ないと思ったのであろう。なんだかビギナーズラックを経験したためにギャンブルにはまってしまった人と同じような気がする。運は一遍やってくると二度めはない。ただしこの本ではそこまで踏み込んだ書き方はしていない。)我が軍には、貴軍にはない「根性」がありますぞとそれを見せつけるために特攻までして見せたのはこの一撃講和に持ち込むためであったらしい。

日本軍はなくなったが、この「根性」はその後独り立ちしてかなり長い間生き残った。「特攻精神で頑張る」という表現はバブルが始まる前まで一部で使われていた。こちらはなるだけ無駄な力を使わないで早くお家に帰ってお風呂と晩御飯を食べたいと願っているのに、こういうことを言う人がいて迷惑千万であった。ただしこういうことを目を吊り上げていう人は、本人は出世を目指しているらしかったが残念なことにあんまり出世しなかった。わたしは、「根性」と「出世」とはほぼ相関がないとみている。「根性」と「収入」はもっと関係がないように観察されるがどうだろうか。

お話変わって今でも会社や役所は「根性」を高く評価するまたはしているふりをする。その意味では日本の戦後はまだ終わっていない。人々に過労死まで求めるのは、「根性」を高く評価している何よりの証拠である。孫子はよき将軍は兵を労われと教えた。(「兵を愛すること赤子のごとし」)いよいよ負けるときには全軍棄ててしまってもよいとも教えた。(「兵を棄てること糞土のごとし」)特攻を企画した将軍は孫子を知らないわけではないだろう。いよいよ負けるときと思っていたはずである。果たして本当に一撃講和があると思っていたのだろうか。わたしは、読んだ直後は半藤さんの一撃講和説に納得したがしばらくたつと納得が緩んでくるのをいかんともしがたく感じる。今の会社や役所の偉い人は、「根性」を高く評価していることを世界からどう見られているのか知っているのだろうか。根性論の出るとき少なくとも孫子は負ける寸前であるとみているはずである。

 


昭和史(半藤一利著 平凡社)なぜ戦争を始めたかの説明

2024-12-21 10:42:48 | 日記

昭和史(半藤一利著 平凡社)なぜ戦争を始めたかの説明

 ヒトというものは知っているつもりであったこと(やや違和感を持っているが一応知ってるつもり)が「いや違う、実はこうである。」との説明を受けてそれが腑に落ちるときに快感を感じるものであるようだ。この本の戦争を始めたかの説明はどうも快感にまでは至らなかった。

この本(前編終戦まで)には、二つの大きな説明がなされている。なぜ日本は戦争を始めたのか、終戦直前までなぜ頑張ったのかである。このうち始めた原因についての説明は縷々されているのだが、実はわたしには些か理解ができないままである。

こういう争い事の本を読むときは、好きな人贔屓の人がいないと読みづらい。太閤記が読みやすいのは、我々は太閤さんを贔屓にしているからであろう。自分を太閤さんに重ね合わせて読むからである。なにも勝ったほうだけではない。義経弁慶のように負けた方に重ね合わせることも可能である。しかしこの説明ではだれにも自分を重ね合わせられないので読みづらいのである。

ここに例えば石原莞爾を主人公にして講談風に描けば読みやすいのであるがそうでない。淡々と教科書風に描いてあると(それがこの本の書き方としては当然であるが)どうもうまいこと頭に入らない。勝ったほうがわかっている講談はわかりやすいが、どちらが勝ったのかわからない川中島の合戦はワクワクしないから面白さがかなり落ちる。

中学高校の時の説明では、「資本は増殖しないと生きていけないものである。日本に明治以降発生した資本は自分が増殖する機会を求めて満州へ出て行った。軍隊はその資本の護衛である。」との説明を受けた。当時、資本の投下なら日本国内にも北海道とか他にもいっぱいありそうなものなのにと思っていた。それがこの本ではごちゃごちゃしていてわたしの理解が行き届かないながら軍人政治家の権力闘争として描かれている。つい10年ほど前に読んだ本では、アメリカがうまい事日本の中枢を操作して開戦に持ち込んだという説明もあった。(そういえばスパイ大作戦というテレビ番組では盛んにそういう設定で物語が作られていた。本当にそんなことができるものか。)歴史は彼が語る物語(his story)ということであるらしい。これは半藤さんが語る物語ということで聞いておくのがいいだろう。ただし以上の三つの説明の中では一番わかりにくい。