映画 フライ ミー ツー ザ ムーン②
なぜアメリカの映画は恋愛をこのような押し相撲のように描くのか。様々な決まり手があってこそお相撲は面白い、押しの一手しかないと高い入場料を払ってまで見に行く気がしないではないか。退屈しのぎに映画を見ながらいろいろ考えてみた。(なにしろ途中で中座するわけにもいかない)
恋愛の技巧の優れている地域と料理がおいしい地域はピタリ一致する。それから古代奴隷制社会であった地域とも一致する。(仮説A)(エジプトは古すぎるので除外して)ドイツイギリスはたぶん古代奴隷制社会ではなかったと推測される。だったら中国が料理のおいしい地域であることはこれで説明できる。ただし恋愛の技巧が優れているかどうかはそういう映画に触れたことがないので何とも言えない。
中東はどうなのかは全く知識がない。ただトルコ料理は大変おいしいと聞く。日本は庶民の料理においしいものがあるが、恋愛の技巧が優れているかどうかは判定がむつかしい。仮説Aは東洋では検証が必要だが西洋ではあたっていると思う。
さて、古代奴隷制社会では貴族階級が旨いものを独占したが、その階級が没落する過程で貴族のおうちの料理人が庶民向けのお店を開設したのが料理がおいしくなった理由だという。しかし恋愛の技巧については、まさか没落貴族がそれを教える学校や学習塾を開いたとは思えないから、庶民のほうが積極的に真似をしたと考えられる。貴族が恋愛の技巧を磨いたのは、光源氏の話にもある通り半ば以上自分の出世のためであったとみられる。恋愛は貴族階級の者にとっては戦場であり仕事であった。庶民はそのいいところだけを真似することができたのであるから、庶民にとって得なことである。徳川家康は娘の嫁入りに源氏物語絵巻をもっていかせたという。家康もその娘も真似をしたいほうの庶民である。庶民は万葉集や平安文学を読んで技巧を学ばねばいけない。
古代から連綿と伝わる技術がないと、映画がこんなにもワンパターンになるのかと残念な思いをした。退屈だった。