本の感想

本の感想など

大覚寺 愛染明王像(東京国立博物館)

2025-02-16 12:56:48 | 日記

大覚寺 愛染明王像(東京国立博物館)

 これは小さな像で、人々は自分の目の高さで拝んだに相違ない。ほかの明王が巨大でやたらに大きな頭と顔であるのに反して愛染明王はバランスの良い頭と顔である。驚くべきはその表情で、人間の持つ嫉妬の感情を見事に表している。喜び悲しみは表現しやすいが嫉妬の感情はむつかしいし、ましてやそれを彫刻にするのはもっとむつかしそうに思うが仏師はその一瞬の感情を見事に刻んだ。

 私は大体の仏さまにはドウカお金持ちにしてくださいとお頼みしている。現に今回もほかの明王さんには(キット専門外なのでさぞやご迷惑だったとは思うが)そうお願いした。しかし愛染明王だけはそうお頼みする気が失せる。嫉妬の顔をしている仏さまにお金持ちもへちまもあったものではない。初めてお願い事をしないで、見事な仏師の腕だけを鑑賞した。

 真言宗は他の宗教とは一線を画している。人間のもつ様々な感情をそのまま認める。他は、何かしら道徳臭い。こういう心がけで暮らすといいことがあるよという臭さである。しかし、真言宗の仏像にはそういう臭みがない。人間とはこんなもんだ、これで行きましょうという潔さがある。どっちがいいのかはわからないが、真言宗のほうが気楽な気がする。わたしは気楽な方が好きであるが、ここは人によるだろう。

 人には嫉妬の感情があることをまず認めるということである。ほかの多くの仏像は、「自分のようにおだやかな知恵のある賢そうな顔をしなさい。人生の出発点はここからですよ。」という表情なのに、大覚寺では怒りや嫉妬が仏像の表情である。

 この時代の権力に近い女の人は大変だったんだと思うとともに、現代でも(権力に近くなくても)集団で競争して働くとどうしても嫉妬の感情が(今は男女を問わず)出てくる。これが人々を苦しめているのであるなと考えた。昔は極わずかの人がこの愛染明王のような苦しみを味わったが今は相当多くの人がこの感情の苦しみを味わっている。


大覚寺展(東京国立博物館)

2025-02-15 20:52:30 | 日記

大覚寺展(東京国立博物館)

 京都の大覚寺へ行けば見ることができるものをわざわざ博物館まで出向くのはどうも効率が悪そうだけど説明を読めるのと、仏像を近くで見ることができる利点があるので遠路はるばる東京まで出向いた。

 仏像はどれもこれも頭でっかちでこの仏師はへたくそなのではないかと一瞬疑ったが、たぶん高い台座に載せるのだろう。ずいぶん下から見上げるようになっていると頭でっかちに作らないと威圧感がないのであろう。その意味では、鑑賞者と同じ高さにくると細かなところが見れるけどありがたみが薄れる。仏像はお願い事をするときは高いところに載せないといけない。選挙演説はたとえビールの箱に載るのでもいいから高いところからやらないといけないのとおなじであろう。

 南朝が、嵯峨天皇と弘法大師が作った寺院に依拠しているのに初めて実感した。南朝がなぜ南の方へ行ったのか。高野山に保護を求めたからと考えられる。事実は知らないが女官を入れなければ保護してあげましょうくらいの返事があったのではないか。皇后と別れるのは嫌だから高野山に上らずにいたのだからもしそうならこれは美談ではないか。

 現に大覚寺の女官のいる建物の障壁画は見事である。このようなアートに囲まれて生活することが権威をつけることになったのであろう。アートと権威権力の関係はもっと論考されていいのではないか。およそ宗教、権威権力とアートはどこの国でもいつの時代でも深い関係があるように見受けられる。行ったことがないので知らないが、内閣府にも国会にも裁判所にもすごいアートがあるであろうか。

 弘法大師と嵯峨天皇である。様々な文書が公開されている。ここには黒山の人だかりで、書道が今も人々を引き付けている。私なぞが見ると、よく間違わずに書けるなと感心するばかりである。字がうまいのは勿論、その精神力がその書を最後まで書ききるまで持続することに感心する。

 これだけの精神力なら、弘法大師は勿論嵯峨天皇もその後継者も今なら大きな会社を経営するとか国家を指導するとかいろんなことができた人であろう。


昭和史と幕末史 (半藤一利 平凡社と新潮文庫)

2025-01-12 12:26:05 | 日記

昭和史と幕末史 (半藤一利 平凡社と新潮文庫)

 両方とも読みやすいのですらすら読んでしまった。著者はそんなこと言ってないけど、どうも昭和の太平洋戦争の発端は幕末にあるのではないかと松本清張さんになった気分で推理を書いてみたい。幕末史は司馬さんの小説で知ってるつもりだったが、今回半藤さんの説(わかりやすく書いてある)を読んでああそうかと思うところもたくさんあった。幕末史と昭和史の開戦前後のところを読んで、総合して考えるとこうなる。

 薩摩と長州はとことん仲が悪いのに同じ政府の中枢にいた。両者はお互いを不倶戴天の敵だとみていた。日本では不倶戴天の敵でも一代限りが普通である。(中央アジアではいろいろな民族が争うので七代前の敵まで争うらしいけれど。)現にわたしにも、あの野郎ぜったい許さないからというのはいるが息子娘にまであいつをやっつけてこいとはまだ言いつけていない。一代限りである。しかし、薩摩(海軍)と長州(陸軍)は別である。何代にも渡って仲が悪かった。男たちは権力を巡って嫉妬するものである。

ところで、太平洋戦争は始まりがわかりにくい。駆け出しのお相撲さんが横綱に挑む感がある。海軍が陸軍(逆かもしれないが)と抱き合い心中すると考えるとわかりやすいのではないか。あいつ許さないとなると外の力(米国)を借り、かつ自らも犠牲にしてあいつを倒してしまおうとなる心はなんとなく理解できる。どちらが海軍でどちらが陸軍かはわからないながらどうもそんな匂いがしてくる。(東京裁判で海軍の軍人さんが裁かれなかったところを見ると、どっちがどっちかは明らかな気がする。)

小学校1,2年のころ我々はちょっとした不正を働いているクラスメートに、

「ゆーたろゆたろ、せんせーにゆーたろ。」

 (担任に言いつけるぞ)と囃したものである。この場合言いつけた児童のほうも担任からお目玉を頂戴することが多いが、それでも外の力(担任)を使ってでもそいつを懲らしめたいものである。それと同じ感覚である。

将軍大将といえども七歳の童子と同じ精神構造であることに注意しないといけない。男の権力を巡る嫉妬はなかなか厄介であることは注意しないといけない。男の嫉妬は世の中を灰燼に帰すくらいの力がある。

わたしは直接世の中を灰燼に帰すの被害を受けていないが、わたしの両親は甚大な被害を受けた。したがって間接には受けている。抱き合い心中は傍迷惑だからやめていただきたい。そこまでいかなくても、仕事をするときに身の回りで起こる権力闘争は迷惑なものである。仕事は衣食住の資を得るためのものだと思っていたが、相手を倒すために仕事をする人がいる。そういう人は、関係ない人に必要以上に高圧的に仕事をさせる。こういったはなはだ迷惑なひとが、組織のトップに立つことが多い。わたしはこういった迷惑な人に自分の大事な時間をだいぶん奪われたなーと思いながらこの二冊の本を読んだ。


映画 レミゼラブル②

2025-01-11 20:49:10 | 日記

映画 レミゼラブル②

 なぜこの題材が2012年に映画化されたのかが疑問であった。原作は1860年代の作品である。(わが国では1900年黒岩涙香訳が名文だったのでずいぶん読まれたらしい。)波乱万丈の人生であった主人公の情(なさけ)と、法律を厳格に執行しようとする者との争いの物語として私は読んだ。原作はどうも法律を厳格に執行しようとする者のほうの分が悪い書き方であった。(そういえば法律を厳格に執行しようとする者は司馬遷の史記でも(法家の韓非子)好意的に書かれていない。)

しかし、この映画の製作者監督も法律の執行云々などは付け足しであり、話をドラマチックにするためだけのエピソードであり、実は貧困に重きを置いて作っているように見える。もし製作者の意図を重んじるなら映画の意味は少々異なってくる。資本主義の草創期には貧困が蔓延していたといいたいのである。同様にこれから貧困の時代が来るといいたいのではないか。

 マルクスの資本論も1860年代のロンドンの貧困を観察して書かれたという。ユゴーのレミゼラブルも1860年代のパリの貧困を観察して書かれたのは間違いないであろう。(1900年の黒岩涙香東京に貧困が蔓延していたのかどうかは知らない。)マルクスのほうは貧困撲滅の処方箋を提示し(ただし効くかどうかは不明であるが)、ユゴーのほうは貧困の中で巧みに生き抜いていく男をドラマチックに描いたということではないか。(ここで主人公がどうして囚人から市長にまで成り上がったのかの説明がないのが残念である。そんなにうまいこと行くものなのか?どうもフランス映画には、この手の説明不足が多いような気がする。)

 こう考えるとこの映画は、2012年に資本主義の草創期と同じような貧困の時代が来ますよと暗示しているのか。アートはその時代の人々の心の反映であるはずで、そうでなければそのアートはヒットしない。このレミゼラブルが多少なりともヒットしたのであるから、それは人々の心にこれから貧困の時代の予感がある(あった)ということではないか、わたしはそのように疑う。

  2012年前後には、アメリカEUが極端な緩和をやり遅れて日本も金融緩和に乗り出した頃である。それはいいことだという意見とやむをえないという意見とやってはいけないという意見が拮抗していた時代である。やってみたところ、プロの人々はどう見ているのか知らないが少なくとも庶民は大した変化がなく拍子抜けした時代でもある。

2012年からもう12年経った。干支が一巡したときにリバイバルが出て、同じ貧困の場面が出てきた。前回見たときは何か作り物臭かったが、今回はややリアルに見えたような気がする。


映画 レミゼラブル

2024-12-31 00:38:17 | 日記

映画 レミゼラブル

 この社会派の文芸作品を、ミュージカルにするのは場違いな印象であった。ちょうど寿司にソースを掛けたような違和感がある。ミュージカルは恋愛とか別れとかの感情に訴えるものがよろしくて、これから社会をこう変えたいと考えているまじめな人が主人公ではどうもいただけない。この作品は、論理的に読んで批判する人賛成する人世の先を考える人いろいろだろうから、論理的なセリフが必要でこのように音楽に載せてはいけないような気がする。その意味では評判高いけど失敗ではないかと思う。同じ場面構成で考え抜かれたセリフを繰り出すのならいろいろ考えながら鑑賞できたと思う。

見ながら考えたことは、なぜこれでもかというほどしつこく「貧困」を描いたかということである。(空腹の人を結構な体格の俳優さんが演じたり、空腹の人がエライ馬鹿力を発揮したりするのはまあやむをえないとしてであるが。)おそらく原作のテーマは、「法とは何か」であったはずである。王様を無しにしたのであるから社会のお手本が法律になってしまうところで発生する問題点を列挙するというのが原作の意図ではないか。それを、貧乏だから革命やむなしの雰囲気つくりにしたいのか人々の貧乏を強調している。この時代の実際は知らないが、果たしてこうであったのか。

わたしは、映画の製作者監督には、現代の貧困と重ね合わせようとする意図があるのではないかと疑っている。髪の毛を売ったり歯まで売ったりするほどの貧困に相当するものがこれから起こるんですよと言いたのではないか。フランスの王室が極端なぜいたくをしたあとの国民の貧困をここまでしつこく描くのはなぜかとか、貧困の原因は重税だけではなく貨幣発行によるインフレだったんだろうなと想像しながら、この少し苦情を言いたくなる映画を見た。たぶん音楽だけ映像だけを楽しむ分には高い評価がつくであろうしそのことに異存はない。