被害にあった皆様に対し、心からのお見舞いを申し上げるとともに、これ以上の被害の拡大が無いことをお祈りいたします。自衛隊の初動も早かったようで良かった。(早い遅いは彼ら自身の都合ではないけれどね。)
今朝、ヘリコプターから撮影された状況をテレビで見ると、被災地の村々はゴーストタウンと化したような状態で人の姿が見えない。皆、避難した後なら良いのだが、そうじゃないのなら自宅などで孤立した状態になっていると言う事で心配だよね。
孤立ということは孤立なんであって、どことも情報の共有化ができていないということなんだが、わかりづらいよね。自分の都合で情報を遮断したのとは違って、情報が欲しくてもどこからも全く来ない怖い状態になっているということ。私、1995年1月17日は、ほとんどそういう状態でした。
1995年1月17日、神戸の西の丘陵地帯にある低い尾根の上に造られた住宅地の中で、ケーブルテレビは切れてしまい、電波はもともと弱くて使い物にならず、携帯電話は普及していないし、有線はつながらない、何がなにやらよく分からない、たぶん地震だろう、こんな派手なことは地震しか理由がつかない、ああ、自衛隊のヘリコプターが飛んでいる、きっと何かあったんだと言う様な状態でした。
どれくらい私が情報に疎かったかというと、休み明けの火曜日ということで家の中は家財が散らばった状態ではあるが、その片付けは家人に任せ通常通り会社に出勤しかけたんだよね。そしたら駅に行く道に裂け目ができていて足を落とし込むは、駅の建屋にヒビが入って屋上の水を貯めるタンクから水が漏れまくり状態。駅員に電車は当面動かないですと言われ、自分が思っている以上に深刻な状況であると悟ったしだいで。
傍から見ていると当たり前でも、当の本人は実はよく分かっていない、そんなモノでしょう。あの時も被災地の外に向けた情報は多かったようだけど、被災地の人にもなるべく正確な情報提供がすばやくできるように今はなっていることを期待したいよね。
そういえば1995年1月、私がもっともありがたかったマスコミは、被災者向けに放送を送り続けてくれた地元のラジオ局だった。
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