藝術新潮'78年3月号第339号の「利休ねずみ考」を読んで以来、黒川紀章さんは私の高校時代の憧れの人でした。
黒川紀章さん追悼 建築家・磯崎新 日本初のメディア型建築家 2007.10.16 08:34 建築家の黒川紀章氏 黒川紀章の栄誉や業績はすでにメディアに報道されているので、ここでは私の個人的な想(おも)いだけについて語りたい。 半世紀昔、私たちは丹下健三チームのスタッフとして東京を湾上に伸展させる構想作りに従事した。これは20世紀最後のユートピア計画であった。もちろん東京はびくともしない。私たちは挫折覚悟でプロジェクトをつくる意義を学んだ。 あのころ、岡本太郎と丹下健三が近代芸術におけるアバンギャルドを体現していた。私たちは彼らの手伝いをし、影響を受けた。エポックメーキングだったと称された大阪万博に参加した。近代のユートピアがここで具現化したのだった。ユートピアを目指すアバンギャルドが、それ故に役割をおえた。歴史の皮肉である。 建築家として自立する時期にあった私たちは、あらためて態度選択を迫られた。私は建築を建築として思考する道を選んだ。建築を批判的にデザインする。一方、黒川紀章はメディアの中で行動する道を選んだ。社会、政治・経済など、建築を外側から決める枠と組みあうことになる。その面倒な役割を身軽にこなした。 私たちは同世代のライバルだといわれたりしたが、そうは思っていない。広義の建築家の社会的使命を、棲(す)み分け、分担していたのだ。だから、私は黒川紀章が逝ったことにより、ほかの誰もが埋める見込みのない大きい空洞が生じたのを感じている。 オブジェクトから、建築物・都市・国土・環境に至るまでを常に新しい構想のもとにデザインし、プロジェクトに組みこむことに駆りたてられ続けてきた点において、私は黒川紀章に深く共感している。これは半世紀の昔、2人が製図板を並べていたころからである。私たちは奇想天外といわれる数々のアイデアを描いた。地方から学生として移住してきた東京が相手だった。東京都からは無視された。 悲観することはない。いいアイデアさえ残れば、自らの手を超えても誰かが実現する。これもまたモンスターになり始めた鈍さの塊(かたまり)のような東京が私たちに与えた教訓でもあった。 20年ほど前、私は現在の東京都庁舎のコンペに応募するにあたって、対抗案を提出した。シティホールとしてのあるべき姿を描いたつもりだった。規約違反として、排除された。だが、そのときの姿に近いものが、テレビ局の建物として実現している。私はタッチしていない。アイデアはひとり歩きをする。 黒川紀章が東京都知事選に立候補したとき、乱心したように世間ははやしたてた。彼が日本では初めての、ただひとりともいえるメディア型建築家であることを知らなかったのだろうか。数々のオブジェ・建築、小都市のデザインをし、それを超える構想を著作として示してきた。次にハイパー都市化する東京のデザインのアイデアを表明するには、立候補というメディアの中でのパフォーマンスしかあり得ないと彼は判断したのだと私は思う。 その証拠に、このとき挙げた公約のようなマニフェストは群を抜いていた。新しいデザインの主題としてのハイパー都市東京を変革するポイントがすべておさえられていた。黒川紀章の半世紀にわたる多面的な活動を集約する内容だった。 それが遺言になった。半世紀間、私たちがトラウマのように背負いつづけた東京なる存在への対抗案がここにある。 黒川紀章のポジションは誰も代替できないが、そのアイデアは誰かが実現させることだろう。それは私の長く伴走した経験からも保証できる。(いそざきあらた) http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/071016/acd0710160835003-n1.htm http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/071016/acd0710160835003-n2.htm http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/071016/acd0710160835003-n3.htm |
ご冥福をお祈りいたします。