東京でカラヴァッジョ 日記

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コンスタブルと肖像画 ー【再訪】「コンスタブル展」(三菱一号館美術館)

2021年03月31日 | 展覧会(西洋美術)
テート美術館所蔵
コンスタブル展
2021年2月20日〜5月30日
三菱一号館美術館
 
   英国の風景画家ジョン・コンスタブル(1776〜1837)の展覧会を再訪する。
 
   コンスタブルは、イングランド東部に位置するサフォーク州イースト・バーゴルトに生まれる。
 
   黒網掛けがコンスタブルの生地あたりの場所を示している。
 
   黒網掛け部分は別の拡大図あり。
     
   全く感度はないが、故郷の風景を好んで描いたという画家の作品を見る限りは、美しい緑の風景が広がっているところらしい。
 
 
 
   画家の父は製粉業を営み、裕福であった。画家は3男3女の4番目で次男。長男が体が弱かったため、後継ぎとして期待されたようだが、反対する父を説得して画業に進む。父はしかるべき金銭的援助を続け、家業は結局三男が継いだらしい。
 
   画家の父ゴールディングと母アンの肖像(両作は、ともに1815年の制作か、または母の方が10〜15年早い制作と考えられているようだ)。
   反対していた父と違って、母は息子の画才を認め、真摯に応援していたという。
 
 
   画家の12歳年下の妻マライア・ビックネル(1788〜1828)の肖像。
   1809年頃から恋仲となったが、貧しい画家との結婚をマライアの家族に反対される。結婚したのはその7年後、画家の父が亡くなりその遺産をあてにできるようになった1816年のこと。
   本作は、1816年、結婚の3ヶ月前の制作。
 
 
 
   風景画で知られるコンスタブルであるが、生活のため、注文による肖像画も制作している。
 
コンスタブル
《ブリッジズ一家》
1804年、135.9×183.8cm
テート
 
   ブリッジズ家の年長の娘メアリ・アンに対し、画家は「特別な愛情を抱いていたと言われている」らしい。妻と恋仲となる以前の話である。
 
コンスタブル
《ふたりの妹とハーブシコードを弾くメアリ・アン・ブリッジズ》
1804年頃、23.7×18.8cm
テート
 
 
 
   1775年生まれのターナーとは1歳違い(コンスタブルが1歳下)。現在ではともに英国の国民的巨匠とされる2人だが、ロイヤル・アカデミーの正会員になったのは、ターナーが1802年の26歳のときであったのに対し、コンスタブルは1829年の52歳のときで、その前年に妻を結核で亡くしている。若き天才ターナーと、認められるまで年月を要したコンスタブルというところだろうか。
 
   本展で面白いのは、コンスタブルとターナーとの対決、1832年のロイヤル・アカデミー展での逸話。
 
   ターナー《ヘレヴーツリュアスから出航するユトレヒトシティ64号》と、コンスタブル《ウォータールー橋の開通式(ホワイトホールの階段、1817年6月18日)》とが並んで展示されることとなる。
 
   仕掛けたのはターナー。「ヴァーニシング・デー(最終仕上げの日)」のこと。
 
   コンスタブルが1832年に《ウォータールー橋の開通式》を出陳したとき、彼の作品は絵画スクールサマセット・ハウスにある小展示室の一室 ー に展示された。ターナーの海景画 ー 美しく忠実ではあるが、画面のどこにも明るい色彩がみられない、どんよりとした印象の絵画 ー は、この作品の隣に掛けられた。コンスタブルの《ウォータールー橋》は、まるで金や銀の液体で塗られているかのように見えたが、コンスタブルが朱色や深紅色で市の遊覧船の飾りや旗を引き立たせている最中に、ターナーはその部屋に何度か出入りした。ターナーはコンスタブルの背後に立って、《ウォータールー橋》から自らの作品に視線を移すと、別の絵画に加筆していた大展示室からパレットを持ってきて、彼の絵画の灰色の海に1シリング硬貨よりもやや大きい印を赤色で丸く塗りつけ、何も言わずにその部屋から出ていった。赤い印はターナー作品の寒色の画面によってより鮮やかに引き立って見え、その鮮やかさと比べると、コンスタブル作品の朱色や深紅色でさえも弱い色に見えた。ターナーが部屋から出て行ったと同時に、私はその部屋に入ったのだが、「ターナーはここにやってきて、銃をぶっ放していった」と、コンスタブルは言った。(・・・)巨匠が再びその部屋に戻ってきたのは、1日半たってからのことである。それから、絵画の手直しが許された最後の瞬間に、ターナーは自らの絵画に塗った鮮紅色の印につやを出し、ブイの形に整えていった。
(チャールズ・ロバート・レズリー『回想録』1860年、202-3頁)
 
ターナー《ヘレヴーツリュアスから出航するユトレヒトシティ64号》
1832年、91.4×122.0cm、
東京富士美術館
 
コンスタブル《ウォータールー橋の開通式(ホワイトホールの階段、1817年6月18日)》
1832年発表、130.8×218.0cm
テート
 
   両作品が並んで展示されるのは、このロイヤル・アカデミー展を除けば3回目、日本では初めて。
 
   どちらに軍配を挙げるか鑑賞者の判断。
   ちなみに、三菱一号館美術館ツイッターの「いま見たいのはどちら?」アンケートでは、
・第1回(開幕前)
   ターナー58.8% コンスタブル41.2%
・第2回(開幕後)
   ターナー49.5% コンスタブル50.5%
だったようだ。
    「見てどちらがよかったか?」アンケートであれば、私はターナーに1票かなあ。このご時世にロンドンから来てくれた作品という意味ではコンスタブルなのだろうけど、なんかカナレット的であるけどカナレットほどではない感があって。
 
   コンスタブルは1837年に60歳で心不全により、ターナーは1851年に76歳でコレラにより死去している。画業は15年ほどターナーが長かったこととなる。
 
 
 
   さて、私的コンスタブル作品2選。
 
1)
コンスタブル
《フラットフォードの製粉所(航行可能な川の情景)》
1816-17年、101.6×127.0cm
テート
  船を操る少年、船を引っ張る係りの馬に乗る少年、船と馬をつなぐロープを外そうとする少年。水門を通り抜けるというのは大変なのだ。
 
 
2)
コンスタブル
《ブライトン近くの海》
1826年、17.5×23.8cm
テート
   左側の大きな作品《チェーン桟橋、ブライトン》1826-27年、ではなく、右側の小品を選びたい。
 
   海景の雲に惹かれる。
 
 
【本展の構成】
1:イースト・バーゴルトのコンスタブル家
  1.1:初期の影響と同時代の画家
2:自然にもとづく絵画制作
  2.1:同時代の画家たちによる戸外制作
3:ロイヤル・アカデミーでの成功
  3.1:ハムステッド、およびコンスタブルと同時代の画家による空の研究
4:ブライトンとソールズベリー
5:後期のピクチャレスクな風景画と没後の名声
  5.1:ロイヤル・アカデミーでの競合
  5.2:イングランド
 
 
 
*展示風景の画像は、3/24開催のブロガー・特別内覧会にて、主催者から特別に許可をいただき撮影したものです。
   関係者の皆様に感謝いたします。


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