PARALLEL MODE:山本芳翠
多彩なるヴィジュアル・イメージ
2024年9月27日〜12月8日
岐阜県美術館
2024年秋の日帰り美術旅行は、初めての岐阜県美術館。
名古屋駅から東海道本線特別快速(または新快速)に乗り換えて約23分の西岐阜駅下車、徒歩約15分。緑の公園も備える立派な施設である。
お目当ては、当地・岐阜県(現恵那市)出身の明治時代の洋画家・山本芳翠(1850-1906)の回顧展。
1993年に4会場を巡回した「山本芳翠の世界展」以来、約30年ぶりの大回顧展だという。
「本展覧会は、国立博物館収蔵品貸与促進事業の活用とともに、山本芳翠作品の日本最多収蔵館でもある皇居三の丸尚蔵館の地方展開の一つとして、同館全面協力のもと、令和6年度秋に岐阜県で開催する国民文化祭(「清流の国ぎふ」文化祭2024)事業として、岐阜県美術館と文化庁の主催により開催します。」
・約200点の出品。
重要文化財《裸婦》、《浦島》、《西洋婦人像》、《自画像》など、初期から晩年までの代表作が一挙集結。
現存する《十二支》連作が全展示。
・皇居三の丸尚蔵館が収蔵する山本芳翠作品全35点が揃って展覧会に出品。初めてのこと。
・門外不出とされていた《天女》も展示。
岸田劉生が、芳翠から父に贈られたこの作品を幼い頃に見て、画家を志したとされる作品。
とにかく凄い!
これだけの作品を一挙に公開できるとは。
前後期制ではあるが、前後期で半分ずつなんてことはなく、実質的にほぼ通期展示。
明治時代の、黒田清輝より前の世代の、世間に認められて生涯にわたって活躍した洋画家の活動の全貌を見ることができる。
皇居三の丸尚蔵館収蔵の全35点の展示や、現存する《十二支》連作10点の全展示があってこそ。
解説のなかで、画家と関わりのあった人物名が出てくるが、当時の著名な美術関係者たちの名が出てくるのは当然として、それ以外にも、伊藤博文や前島密、軍医としての森鴎外も出てくるのに感心する。
【本展の構成】
1 はじまりー西洋画を識る
2 フランスへー画家YAMAMOTO
3 帰国後の芳翠ー物語る絵
4 記録と記憶ー描かれたイメージ
明治元年、18歳のとき、本格的に絵画を研究せんと、東京・横浜に出る。五姓田芳柳の洋風画に感嘆し方向転換、西洋画の道に進むことを決意。翌年、五姓田芳柳に入門する。
明治5年、日本初の博覧会となる明治五年文部省博覧会にて、洋学者の内田正雄がオランダから持ち帰った西洋人の油絵8点のうちのひとつ、蝋燭を灯した闇の中で化粧をする3人の女性を描いた《好人夜景》に感嘆する。
明治9年、日本初の官設の西洋画教育機関として開設された工部美術学校に入学し、イタリア人アントニオ・フォンタネージから本格的に油彩画を学ぶ。半年ほどで退学。
明治10年、第1回内国勧業博覧会に《勾当内侍月詠之図》を出品、花紋章となり、宮内庁買い上げとなる。
明治11年、28歳のとき、津田仙と岸田吟香の尽力で、パリ万国博覧会の事務局雇として渡仏する。
1章「はじまりー西洋画を識る」は、渡仏するまでの作品を扱う。
意外にも1章の出品点数は、6点と少ない。入場してすぐの一画で終わる。現存しないのだろうか。
宮内庁買い上げの《勾当内侍月詠之図》明治10年、皇居三の丸尚蔵館蔵。
月夜、蝋燭の灯りに照らされた、琴を奏でる内侍(女官)の姿。
本展で初公開となるらしい。
石版筆彩の《鹿児島戦争之図》明治10年、神戸市立博物館蔵。
報道メディアとして、当時の浮世絵師は西南戦争を盛んに描いているが、芳翠の作品は、打たれて倒れた兵をはさんで、左側に兵たち、右側に怯える女性たちと子ども・赤子が相対するという、背景には銃を放つ兵たちも描かれ、戦争の悲惨さを表しているような作品。
明治11年3月、フランスに到着した芳翠。パリ万博の仕事が終わってもパリに残る。
帰国の途についたのは明治20年5月。
帰りの船は、3年半のミュンヘン留学を終えた原田直次郎と同じであった。
約10年間のパリ生活。
ジェロームのアトリエやエコール・デ・ボザールで学ぶほか、豪放磊落で社交家肌、多芸多趣味で料理の腕はプロ並みの芳翠は、日本人社会のみならず、現地の文芸世界の人々とも親密に交友する。日本人画家としてパリの文芸世界で重用されるようになり、渡邊省亭や林忠正とともに、フランスのジャポニスム・ブームに一役買うこととなる。文豪ヴィクトル・ユゴーとも交友があったらしい。法律を学ぶため留学中の黒田清輝に画家への転身を勧めたのは芳翠たちである。
2章「フランスへー画家YAMAMOTO」は、パリ時代の作品を扱う。
展示数は20点ほどと、多くはない。
パリ時代の作品のほとんどは、日本に送る途上で、作品を載せた巡洋艦「畝傍」とともに行方不明となったためである。
現存作品は、パリ滞在中に売却・贈呈などで手放した少数の作品ということになる。
《天女》明治11年、三菱重工業株式会社長崎造船所蔵。
本展の宣伝によると「門外不出」の作品らしい。
芳翠が渡仏した年、万博会場で話題となっていたジュール=ルイ・マシャール(1836-1900)の作品《セレネ》を模写し、報告を兼ねて岸田吟香に送ったという、193.0×127.3cmの特大サイズの作品。吟香の息子・劉生(明治24年生)が幼い頃に本作を見て画家を志したという。
重文《裸婦》明治13年頃、岐阜県美術館蔵。
新潟の豪商・白勢和一郎(1860-1929)は、明治13年、20歳のとき、果実栽培研究のため渡仏し、芳翠と知り合う。2年間の留学を終えて帰国する際、芳翠から購入した3点を日本に持ち帰る。そのうちの1点が本作。
森の中で、苔むした岩場に白い布を敷いて横たわり、眼前の蜘蛛の糸を眺める裸婦。
西洋風の月並みなタイプの裸婦像、と思っていたが、西洋的主題をアカデミズムの本格的技法で制作した、芳翠の現存作品でも出色の出来であることを認識する。アジア近代美術が必ず通る道、西洋神話的な裸婦像を高いレベルでより早い時期にものにしたということだろう。
持ち帰りの他2点は、《若い娘の肖像》と《白勢和一郎氏肖像》。
前者は、ルーヴル美術館所蔵のフランスの画家イポリット・フランドラン(1809-64)作品の模写。フランドラン知らんと思うが、その代表作《海辺の若者》(1836年、ルーヴル美術館)は、画集で見たのだろう、見覚えがある。
後者は、ヴェルサイユ宮殿に展示されていたナポレオン時代の作で白馬に跨った等身大の人物を見た白勢が、このとおりの図に倣って自分を描いて欲しいと芳翠に注文した、という作品。
そのとおりの大画面が完成。その後の月日の経過で状態が悪化し、一部を残して破棄されたという。
本展では、残った断片、「白勢和一郎の頭部」、「馬の頭部」、「空の部分」の3部分が展示される。「白勢和一郎の頭部」は、元は大仰な肖像画であったのに、今は小サイズの普通の肖像画になってしまったというのがおもしろい。「馬の頭部」は、作品全体を写した古い写真を実物大に拡大したパネルを背景にして、画面の本来の位置に置いて展示されている。
《ヴィクトル・ユゴー葬送の図》明治18年、ヴィクトル・ユゴー記念館
芳翠は、文豪ヴィクトル・ユゴーと交友があったという。東洋趣味の女性作家ジュデイット・ゴーティエ宅でユゴーと知り合い、得意の料理をふるまう、ユゴーの孫の妻に日本画を指導する、など。のちに芳翠は自分の長男に「友吾」と名付けている。
本作は、パンテオンまで行列が行われた国葬の様子を水彩で描いたもの。ユゴーの遺族に贈られたらしく、パリのユゴー記念館が所蔵する。
現地の文芸界との交友が深まるなか、ジャポニスムの流行を背景に、日本風の絵を描ける画家として活躍し、挿絵の依頼を多くこなしたという。その作例も展示されている。
2章では、ほかに東京藝術大学所蔵の《西洋婦人像》、愛知県美術館所蔵の《月下の裸婦》。日本人男性の肖像画2点に日本人女性の肖像画1点などが並ぶ。
参考出品として、原田直次郎がミュンヘン留学時代に制作した重要文化財指定作品《靴屋の親爺》明治19年、東京藝術大学蔵や、黒田清輝がパリ留学時代に制作した《自画像》明治22年、鹿児島市立美術館も展示。
帰りの船が一緒となった原田、重要文化財指定では、原田が2点と先行、芳翠も2点目を虎視眈々と狙っているところ?
芳翠が画家転身を勧めた黒田、重要文化財指定では、黒田は3点と、追いつけそうもない。「君が法律を学ぶよりも画を学びたる方が日本の為にも余程益ならん」という見立てどおりである。