PARALLEL MODE:山本芳翠
多彩なるヴィジュアル・イメージ
2024年9月27日〜12月8日
岐阜県美術館
その2は、本展の後半。
【本展の構成】
1 はじまりー西洋画を識る
2 フランスへー画家YAMAMOTO
3 帰国後の芳翠ー物語る絵
4 記録と記憶ー描かれたイメージ
明治20年(1887年)7月、37歳の芳翠は、約10年間のパリ滞在から帰国する。
世は、洋画排斥運動の真っ只中である。
同年10-11月、伊藤博文による鹿児島・沖縄・長崎・広島の巡視に随行する。
伊藤が、憲法調査等で渡欧中に親交を持った芳翠に依頼したものらしい。
芳翠が制作した鹿児島・沖縄の風景・人物・風俗画全20点は、伊藤より明治天皇に献上される。
本展の3章「帰国後の芳翠ー物語る絵」は、鹿児島・沖縄の風景・人物・風俗画から始まる。
本展には、皇居三の丸尚蔵館が所蔵する6点が出品。
最初に置かれるのは《ハブ、鳥と闘う》。ハブと鳥が威嚇しあっている図。他5点は、風景・風俗の図。
2章のパリ時代の作品とは、題材・雰囲気が様変わりし、面食らう。
洋画排斥の風潮下、芳翠の苦闘が展開されていくのかもしれない。
明治21年7月15日、福島・猪苗代湖の北に位置する磐梯山の大噴火。
近代日本が初めて経験した大規模な災害とされる。
噴火5日後の20日、芳翠は、東京朝日新聞の特派員として、盟友の版画家・合田清とともに、猪苗代湖畔に入り、下図を描く(24日、新聞掲載)。
8月1日、新聞の附録として、木口木版《磐梯山噴火真図》が配布される。
また、油彩画《磐梯山破裂之図》を制作し、8月8日、伊藤博文を介して明治天皇に献上する。
本展には、新聞附録の木口木版《磐梯山噴火真図》および油彩画《磐梯山破裂之図》皇居三の丸尚蔵館蔵 が出品。
凄まじい火と煙の磐梯山を背景に、必死に逃げようとする村人たちの描写が印象的。当時、その新聞附録は、評判を呼んだという。
明治22年、洋画排斥の風潮に対抗し、洋画家たちによる団体「明治美術会」が発足する。
10月、第1回展覧会が開催され、芳翠は2点出品する。
森鴎外は、出品作品すべてに辛辣な批評をする。芳翠の出品作品《星》についても、「素人威しの趣」と論じる。
本展には、「素人威しの趣」とされた、しかし鴎外の評が決め手となり近年発見されたという、《星》岐阜県美術館寄託 が出品。雲の上に胸を見せながら横たわる西洋女性。確かに(今から見れば)月並みな作品ではある。
明治24年、三菱財閥総裁・岩崎彌之助の依頼を受け、《十二支》連作の制作を開始する。
翌年、《十二支》連作12点を、明治美術会の第4回春季展覧会に出品。その後、宮中にて両陛下展覧となる。
本展には、《十二支》連作12点のうち現存10点(三菱重工業株式会社長崎造船所蔵)が一挙公開される。一挙公開は貴重な機会らしい。
《十二支》連作、明治25年
子「少女の書見」
丑「牽牛星」
寅「徳川家康の母」
兎 現存せず
辰 現存せず
巳「日本神話」
午「殿中幼君の春駒」
未「蘇武北狄に流罪」
猿「庚申塚」
酉「思兼神」
戌「祇王」
亥「僧運慶」
「西洋における歴史画の日本的解釈」とされるこの連作。個々に見ると、居心地の悪さはあるけれども、魅力なポイントも多い。なにより10点勢揃いだと、鑑賞に気合いが入る。
私的には「牽牛星」。物語絵は、物語のあらすじを簡単でも知っていて、どの場面が描かれているのか、この場面に至るまでの経緯、その後の顛末まですぐに思い浮かぶ、というのが楽しめる条件の一つである、と私的に思う。他の9点ではそうはいかない。
「少女の書見」は、行灯に照らされた夜の室内、書物を読んでいた少女がうたた寝している、テネブリズム(光と闇の強烈なコントラストを用いた表現)の作品。
《十二支》連作が展示される部屋には、ほかにもテネブリズム作品、《灯を持つ乙女》明治25年、岐阜県美術館寄託 や、《眠れる女》明治26年頃、福富太郎コレクション資料室 も楽しむことができる。
ほか「日本神話」の女性の驚く様や、「庚申塚」の女性の目などに引っかかる。
明治26年、黒田清輝が帰国。
翌年、自身が主宰する生巧館画学校を塾生とともに16歳年下の黒田に託す。
明治28年、明治美術会第7回秋季展覧会に《浦島》ほかを出品する。
《浦島》明治26-28年頃、岐阜県美術館
本展における《浦島》は、《猛虎一声》明治28年、東京藝術大学 や《十二支》連作、テネブリズムの女性像作品などと同じ部屋に、主役として展示される。
私的には、2020年の三菱一号館美術館「1894 Visions ルドン、ロートレック展」以来4年ぶり3度目の鑑賞であるが、過去2度の鑑賞時はピンとこなかった。
今回、その素晴らしさに圧倒される。
繰り返しになるが、物語絵は、物語のあらすじを簡単でも知っていて、どの場面が描かれているのか、この場面に至るまでの経緯、その後の顛末まですぐに思い浮かぶ、というのが楽しめる条件の一つである、と私的に思う。
「浦島太郎」の物語は、その条件に合致。
西洋の歴史画の手法を、祝祭的な色彩の効果を、日本の御伽草子に見事に適用した、日本の明治以降の絵画のなかで最高の物語絵だと思い知らされる。
いずれ重要文化財に指定されるだろう。
1年戻って、明治27年(1894年)。
8月1日、日本が清国に対して宣戦布告。日清戦争の開戦である。
芳翠は、従軍画家として、同年9月から翌年3月まで現地を取材する。
第二軍兵站軍医部長の森鴎外は、司令部で芳翠に出会い、一首を詠じている。「血なまぐさい戦場をめぐる芳翠が、その様子を絵にしようとしていること、無聊をかこつ陣中にあって芳翠の講談が皆を慰めていること」を詠んだものだという。芳翠は貧しい食材を巧みに使った手料理をふるまうこともしていたようだ。
帰国後、《明治二十七八年戦地記録図》を制作し、明治30年までに全15点が献上される。
4章「記録と記憶ー描かれたイメージ」は、この《明治二十七八年戦地記録図》全15点の一挙公開から始まる。
《明治二十七八年戦地記録図》15点
明治28〜30年、皇居三の丸尚蔵館
「第一軍花園口上陸図」
「第二軍の先鋒左翼隊右門子に敵を破るの図」
「吉田少尉部下の二十七勇士を率いて金州城壁を登るの図」
「旅順総攻撃の前夜土城子附近野営の図」
「旅順没落の日敵の地雷火背面二龍山爆発の図」
「義州砲塁陥落の図」
「平壌陣営に捕虜を収容するの図」
「旅順総攻撃の図」
「敵艦靖遠沈没の図」
「復州附近の敵兵不意に金州城を襲い城内狼狽の図」
「栄城内人民狼狽の図」
「威海衛海陸総攻撃の図」
「敗兵を牙山に追撃し皇軍始めて戦勝を祝する図」
「全軍の将校悉く旅順口に集り戦勝を祝する図」
「清国水雷艦逃走我艦隊之を追撃するの図」
東京国立近代美術館が所蔵する戦争記録画に慣れた眼には、ぱっと見、風景・風俗画のような感じ。やまと絵的な金の霞が画面の周囲を囲むのがその感を増す。よく見ると、戦闘の場面や兵士の日常が描かれている。風景が大きく人物が小さいのは、単に制作法の問題であるだろう。ただ、大自然を前にして、人間の小ささ・戦争の愚かさを表す意図も考えたくなる。
明治37年(1904年)2月10日、日本がロシアに宣戦布告。日露戦争の開戦である。
芳翠は、日清戦争に引き続き、日露戦争にも従軍する。明治37年8-10月と、翌38年1-12月の2度。2度目は1年近くと長め。
1度目の従軍、現地にて水彩画《遼陽附近写生図》12点を制作し、帰国後に献上する。
本展には、前後期6点ずつ展示される。
《遼陽附近写生図》12点
明治37年、皇居三の丸尚蔵館
日露両軍の主力が初めて激突した遼陽会戦、その地「遼陽の戦跡」を描く。
画面は、戦闘の場面どころか、人物すら描かれない、シンプルな写生画。水彩画の付属説明書により、その地における戦闘の詳細な解説がなされているという。
制作の都合上そうしたということらしいが、戦跡の写生画は、戦争の愚かさを表す意図も考えたくなる。
2度目の従軍、その成果であり芳翠最後の大作とされる《唐家屯月下之歩哨》。
《唐家屯月下之歩哨》
明治39年、皇居三の丸尚蔵館
旅順攻囲戦における第11師団の唐家屯での露営の様子を描く。夜警にあたる直立不動の歩哨やテントなど露営地であることは示されているが、描かれた風景や作品の雰囲気は、抒情的な風景画にしか見えない。
《唐家屯月下之歩哨》を献上した年の11月、芳翠死去。享年56歳。
日本近代洋画の初期展開を、山本芳翠を通じて、満喫させてもらう。
代表作を含むこれだけの量の作品が、展示替えも少なく、一挙公開されるのは、回顧展として最高の形。
皇居三の丸尚蔵館の全面協力もあってか、皇室・宮内省との結びつきが強く出ている感じがするが、実態もそんなものだったのだろうか。
この時代に興味が湧く。過去に見た高橋由一や原田直次郎の回顧展をもう一度見たい、他の画家の回顧展やその時代をテーマとする展覧会などを見たい。