東京でカラヴァッジョ 日記

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よみがえれ! シーボルトの日本博物館(江戸東京博物館)

2016年09月22日 | 展覧会(その他)

よみがえれ! シーボルトの日本博物館
2016年9月13日~11月6日
江戸東京博物館

 

   まず最初に登場するのは、油彩画、
《シーボルト肖像》

  シーボルト晩年の、肖像画らしい肖像画。本展のメイン・ビジュアル扱い。

 

   次に登場するのは、同じ作品名だが、日本人が描いたという、
《シーボルト肖像》


   1次滞日時に描かれたらしいので、シーボルト30歳前後の肖像となるが、同じ人物でありながら、この違いは何だ。
   理想化vs戯画?
   両極端の展示、落差に参る。

 



   1796年、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、ドイツの現バイエルン州北西部に位置するヴュルツブルクにて、祖父・父ともにヴュルツブルク大学の医師という医学界の名門の一家に生まれる。


   大学卒業後、医師となるが、東洋研究を志し、オランダ陸軍の募集に応じ、オランダ領東インドへ陸軍軍医少佐として赴任する。さらに、オランダ領東インド総督に希望が認められ、1823年、長崎出島オランダ商館付医官として来日する。



   出島内にて開業後、1824年に出島外に鳴滝塾を開設し、西洋医学(蘭学)教育を行う。

 

   行動が制限されるなか、1826年、オランダ商館長の江戸参府に随行するチャンスが訪れる。往路55日、江戸滞在37日、復路51日。道中を利用して日本の自然研究に没頭する。
   同行した出島出入絵師の川原慶賀に、道中の風景、風俗、人物等を描かせる。川原慶賀は「シーボルトのカメラ」的存在。

《人物画帳 川越人足》川原慶賀筆

 

   来日後まもなく日本人女性の楠本滝と事実婚状態となり、娘・楠本イネを1827年にもうける。イネは、産科医として西洋医学を学んだ初めての日本人女性となる。

幼少期の《イネ肖像画》川原慶賀筆

 

   1828年、シーボルトの帰国直前、所持品の中に禁制品の日本地図などが見つかり、それを贈った幕府天文方・書物奉行の高橋景保ほか十数名が処分され、景保は獄死する。シーボルトも、地図返却の要請を拒否したため、1829年に国外追放・再渡航禁止の処分を受ける。シーボルト事件である。

   没収前、密かに写された、 カナ書き《伊能特別小図写(西日本)》

 

   1830年、収集した膨大な情報や資料とともに、オランダに戻る。シーボルトは、『日本学』3部作の出版、そして「日本展覧会」の開催に、精力を傾けて取り組む。

 

   1854年、日本が開国。1858年に日蘭通商条約が結ばれる。シーボルトに対する追放令も解除される。

 

   1859年、オランダ貿易会社顧問として2度目の来日。対外交渉のための幕府顧問となり、博物収集や日本観察に励む。顧問・学術教授の職を解任される。ともに来日した長男のアレキサンダー(1846年生)をイギリス公使館の職員に就任させ、1862年、多数の収集品とともに帰国する。

 

   コレクション購入をオランダ政府、次にバイエルン王国に働きかけるが叶わず。アムステルダム、ヴュルツブルク、ミュンヘンで日本博物館を開催する。
 自らの研究を完成させるために3度目の訪日を熱望し、仏政府や幕府に働きかけたが受け入れられることなく、1866年、70歳でミュンヘンで死去。


   長男アレキサンダーは、その後明治政府にお雇い外国人として40年間雇用され、外交官として活動。
   次男ハインリヒ(1852年生)も、父の死後に来日。主に考古学分野で活躍し、やはり大量の収集品を欧州に送る。また、日本人女性と結婚し2男1女をもうける。

 

 

   第4章に、シーボルトの収集品220点強が並ぶ。2次滞日時の収集品で、ミュンヘン五大陸博物館が所蔵する。
(ちなみに1次滞日時の収集品は、本展対象外だが、オランダのライデン国立民俗学博物館が所蔵。)


   幕末の品々、好みのものを見つけてください。

   私は、日本人画家による《シーボルトの肖像》で既に参ってしまっている。



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