東京でカラヴァッジョ 日記

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「グランマ・モーゼス展 素敵な100年人生」(世田谷美術館)

2021年12月14日 | 展覧会(西洋美術)
生誕160年記念
グランマ・モーゼス展
素敵な100年人生
2021年11月20日〜2022年2月27日
世田谷美術館
 
 大阪、名古屋、静岡を経て、4箇所目の巡回地・東京にやってきた「グランマ・モーゼス展」。
 約4年ぶりの世田谷美術館。いつもの東急・用賀駅でなく、初めて小田急・千歳船橋駅から向かったが、30分に1本のバスが25分強遅れでやってくるほど、道(環八)は混雑。
 
 グランマ・モーゼスと言えば、SOMPO美術館がまとまった数のコレクションを有し、常設でも数点程度展示している。美術館サイトによると所蔵は33点。うち10点を本展に出品する。
 
 本展の出品作は他に、長野県のハーモ美術館の4点、東京富士美術館の2点、開催地・世田谷美術館の1点が国内からだが、約8割がアメリカからの来日である。
 
 
 「グランマ・モーゼス」との愛称で知られるアンナ・メアリー・ロバートソン・モーゼス(1860〜1961)。
 
 1887年(27歳)、結婚、ヴァージニア州に移り農場を借りて暮らす。1905年(45歳)、生地ニューヨーク州に戻り、イーグル・ブリッジに農園を購入。1927年(67歳)、夫と死別。1932年(72歳)、病気がちな娘と孫娘の世話をするため、バーモント州・ベニントンに滞在。
 1935年(75歳)、イーグル・ブリッジに戻る。この頃、リューマチ悪化のため得意の刺繍絵の制作が困難となり、絵筆に持ち替える。
 近所のトーマス・ドラッグストアに手作りジャムとともに絵を並べるが、ジャムは人気でも、絵が注目されることはなかった。
 1938年(78歳)、偶然立ち寄ったアマチュア・コレクターのルイス・カルドアが、モーゼスの絵に目を留める。ドラッグストアにある絵、モーゼスの手元にある絵、全て(10点)を購入する。
 カルドアは、美術関係者にモーゼスの絵を売り込むべく尽力する。
 1939年、MOMAの限定公開の展覧会「現代の知られざるアメリカの画家たち」に、3点が出品される。
 1940年(80歳)、オットー・カリヤーの画廊「ギャラリー・セント・エティエンヌ」のニューヨーク支店にて、初個展「一農婦が描いたもの」が開催される。
 オットー・カリヤー(1894〜1978)は、1938年にナチスのオーストリア併合を機に、故郷ウィーンを離れ、パリに画廊を開設し、翌39年にNYに支店を開設していた。エゴン・シーレの初めてのカタログ・レゾネを刊行したほか、アメリカにドイツ・オーストリアの表現主義をいち早く紹介した人物だという。
 カリヤーは、モーゼスをプロモートする。国内各地での個展の開催、自伝/画集の刊行、著作権管理団体の立上げ、等。
 結果、アメリカの国民的画家となり、ヨーロッパや日本にもその存在を知らしめ、大成功。なにより、80歳で初個展を開催した女性が101歳まで絵を制作し続け、年間70点超のペースで、1,600点以上の作品をのこした、ということが僥倖である。
(あのゴッホが、約10年で油彩・水彩あわせて約1,000点である。)
 本展も、画廊「ギャラリー・セント・エティエンヌ」の名が協力者としてあげられ、出品作の多くは、その所蔵者が「個人蔵(ギャラリー・セント・エティエンヌ、ニューヨーク寄託)」である。
 
 
 本展では、初個展以前に描かれた最初期の作品から亡くなる年に描かれた作品まで、刺繍絵を含めて80点の作品(初来日は13点)と、愛用品・関連資料が展示される。会場内解説の多くは、モーゼスの自伝/書籍の言葉をもとに作られている。
 
 モーゼスは、いにしえの記憶・思い出に基づいて、スクラップした雑誌の写真などの力も借りながら、作品を制作したようである。
 ハレの日の記憶、ちょっと心が躍ることもあったイベント的な労働の記憶、今はなき懐かしい風景の記憶、自分がこなしてきた厳しい労働の記憶。
 驚愕の制作パワー。その奇跡にプロモーターこそ感謝したことだろう。
 
 
【本展・東京会場のメインビジュアル】
グランマ・モーゼス
《シュガリンク・オフ》
1955年(95歳)、45.7×61.0cm
個人蔵(ギャラリー・セント・エティエンヌ、ニューヨーク寄託)
 カエデ類の樹から樹液を集め、これを沸騰させて、砂糖やシロップの原料とする。冬(春先)の重要な労働である。


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