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石垣栄太郎《リンチ》《腕》 - 2020年12月の東京国立近代美術館所蔵作品展「MOMATコレクション」(その2)

2020年12月09日 | 東京国立近代美術館常設展
   今期(11/3〜2/23)の「MOMATコレクション」の5室「美術と国家|連邦美術計画」より。
 
石垣栄太郎
《リンチ》
1931年、91.0×101.5cm
東京国立近代美術館
 
石垣栄太郎
《腕》
1929年、91.0×106.0cm
東京国立近代美術館
 
 
石垣栄太郎
 
1893年、和歌山県東牟婁郡太地に船大工の長男として生まれる。
1909年、父に呼び寄せられ、中学校を退学し、渡米。シアトルに。様々な仕事に従事しながら、キリスト教と社会主義運動に関心を持つようになる。
1914年、美術学校に学ぶ。
1915年、ニューヨークへ。
1925年、独立美術家協会展に《鞭打つ》を出品。アメリカ画壇デビュー。
1929年、田中綾子と結婚。
1935年、連邦美術計画(WPA)の仕事としてハーレム裁判所の壁画制作を始める。 
1937年、石垣をはじめとする日本人美術家たちが、アメリカの市民権がないことを理由に連邦美術計画(FAP)を解雇される。壁画は翌年地元住民の抗議により撤去。 
1941年、日米開戦にともない敵国民としての規制を受ける。心労により病身となる。 
1945年、父、弟相次いで死去。
1951年、共産主義活動の嫌疑で逮捕されるが、国外退去を条件に釈放、(夫婦で)帰国。母と42年ぶりの再会。東京・三鷹に住む。
1958年、逝去。
 
【参照】和歌山県立美術館
http://www.momaw.jp/files/生誕120年記念石垣栄太郎展プレスリリース.pdf
 
 
 
5室「美術と国家|連邦美術計画」の他の展示作品3選。
 
国吉康雄
《待つ》
1938年
 
 
野田英夫
《都会》
1934年、44.5×90.9cm
東京国立近代美術館
 
 
ジャクソン・ポロック
《無題(多角形のある頭部)》
1938-41年頃、69.2×48.9cm
東京国立近代美術館
 
 
 
5室「美術と国家|連邦美術計画」
   1930年代、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトは、世界恐慌(1929年)から経済を立て直すためにニューディール政策を進めます。その一環としてWPA(公共事業促進局)が打ち出したのが芸術家支援計画「フェデラル・ワン」で、そのうちの美術分野に関するプロジェクトが連邦美術計画(1935〜43年)です。WPAは駅、役所、図書館など公共建築への壁画や彫刻の設置、美術教育事業や美術に関する調査記録事業などを立ち上げ、その担い手として多くの美術家を雇用しました。ジャクソン・ポロックやウィレム・デ・クーニングなど戦後美術のキーパーソン、あるいは国吉康雄や石垣栄太郎などアメリカで制作、発表を続けた日本人アーティストもこの計画に参加しています。そしてこの計画は、美術家の職を確保しただけではなく、結果として当時のアメリカの生活や文化などの貴重な記録を多く残すことにもつながりました。  
   この部屋では、美術(家)と国家の関係を考えるきっかけとして、連邦美術計画を起点に1930年代の美術をご紹介します。

 



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