われわれがいまヴォルテッラを訪れるのは、ここにエトルリアのすばらしい美術館があるのと、マニエリスムの天才ロッソ・フィオレンティーノの恐るべき『キリストの十字架降ろし』が絵画館にあるためである。
若桑みどり『フィレンツェ』(文藝春秋、1994年刊)より。
若桑氏にそこまで強く断言されると、受け入れるしかない。
それまでほとんど知らなかったヴォルテッラ。それからは、エトルリア芸術とロッソ・フィオレンティーノの街として記憶させられる。
ヴォルテッラは、イタリア・トスカーナ州ピサ県の街。トスカーナ州の州都フィレンツェからは、バスで約2時間(乗継あり)、または電車約1時間+バス約1時間で計約2時間。本数も限られているだろう。日本からの短期旅行だと、アクセスがちょっと厳しいところにある。
そしてもう一つ。
町の老人は市庁舎の上のメディチの紋章をさして、わたしに呪いのことばを言った。もっともそれは(そのころ)無知なわたしが「おや!ここにもメディチがある!」などと叫んだためだったが。
若桑氏が叫んだ当時で、約500年前の悲劇。
1472年の「ヴォルテッラの劫略」。
辻邦生『春の戴冠』を読んで、その悲劇を初めて知った若桑氏の著書のことを思い出した次第。
染色に不可欠な鉱物「明礬」。明礬がなければ、絨毯も壁掛けも衣服も、色を染めだすことはできない。フィレンツェの主産業である羊毛輸出入業や毛織物業、ひいては、フィレンツェ経済が立ち行かない。
明礬はヨーロッパではほとんど産出されず、トルコ領からの輸入に依存していた。
そんなとき、1460年、ローマ北西部のトルファにて、明礬鉱が発見される。埋蔵量も多く、品種も良好。教皇はメディチ家に専売権を与え、ヨーロッパ内への独占供給を画策し、トルコからの輸入を禁止する。銀行業が傾きつつあるメディチ家にとっても、明礬事業は新たな柱と期待し、独占供給の実効性確保に奔走する。
そんななか、1470年、領内の自治都市ヴォルテッラに明礬鉱が発見される。
フィレンツェはその採掘権を得る。
一方、1471年、トルファでの専売権が新教皇により剥奪される。
ヴォルテッラでは、次第にフィレンツェの独占に反感を持つようになる。分け前の見直しを求める。フィレンツェはぼぼゼロ回答。ヴォルテッラは採掘場を占拠する。暴動が起こる。フィレンツェは武力制圧を決意する。ヴォルテッラは「劫略しない」を条件に門を開く。しかし。
フィレンツェの一薬種商ランドゥッチの日記(近藤出版社刊)より。
1472年6月18日
協定が結ばれてヴォルテッラはこちらのものとなり、財産と人身の安全は確保されることになった。みんな大よろこびだった。しかし軍がヴォルテッラ市内に入ったとき、ヴェネツィア人だった指揮官が「略奪を」と叫びはじめたので、わが軍は市中になだれ込んで略奪した。必要な措置をとることも、かれらに協定を守らせることもできなかった。(フィレンツェ傭兵軍の隊長であるウルビーノ)伯はそのヴェネツィア人と、もう1人シエナ人を絞首刑にさせた。しかしそれでも、かわいそうな民衆がひどい目に逢ったことには変わりがなかったのだ。
追い打ちをかけるように、土砂降りの雨が荒廃した町を襲う。地すべりを引き起こす。凄惨きわまる状況。
フィレンツェ市民は、ヴォルテッラの悲劇を聞いて嘆き、遺族のための寄付を集めて後悔の情を示したという。『春の戴冠』でも、メディチ派の回想記記者の逡巡が語られている。
ヴォルテッラは自治権を奪われる。フィレンツェによる要塞が建てられる。その要塞は完成直後から牢獄として使用され、現在も刑務所として使用されているらしい。
肝心の明礬鉱であるが、埋蔵量が少なく、品質も劣ることが判明し、やがて閉山となったという。
ロッソ・フィオレンティーノ
《十字架降下》
1521年、341×271cm
ヴォルテッラ、市立絵画館
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悲劇の約50年後に、ヴォルテッラの信心会がその礼拝堂に設置するために注文された作品。
その頃のヴォルテッラは、劫略が生んだ凄惨が人々の記憶からまだまだ消えていなかっただろうし、悲劇が生んだ荒涼が町の風景にまだまだ濃厚に残っていただろう。
そして、約500年後の若桑氏の叫び。いつ頃のエピソードだろうか。若桑氏にも、エトルリア芸術+ロッソ・フィオレンティーノに熱心だが悲劇には疎いような時代があった。
コメントありがとうございます。
ラヴェンナの「化け物」の件は、初めて知りました。日記を確認すると、こちらもずいぶん詳しく記述されていますね。その記述の僅か18日後にラヴェンナの「略奪」。約40年前のヴォルテッラの悲劇。当時をリアルタイムで知るフィレンツェ人にとって、心の重荷だったのでしょうか。ヴォルテッラが出てくる他の箇所は、その多くが「牢屋」。牢屋はフィレンツェがヴォルテッラ攻略後直ちに建設した要塞を利用したもの。これでは思い出してしまいます。
アクセスの良くないヴォルテッラへの旅は、日本からの限られた旅行日程では、確かに優先順位は低くならざるを得ないですね。若桑氏の言葉は正しかった。
若桑みどりのフィレンツェは10年以上前に読んだ本ですが、内容はすっかり忘れていました。今見直してみると、かなり役に立つことが書いてあると思います。辻佐保子のファブリ画集ウッチェロと同じで、自分の知識や旅行経験が昔より多くなっているためでしょうか。ヴォルテッラの劫略がフィレンツェでのパッツィ家の陰謀につながってくるという話、昔読んで分かっていたはずですが、改めて読んでみると勉強になります。また、ランドゥッチの日記については、高階秀爾のルネサンス夜話にこの日記の歴史的意義(感情を入れずに淡々と書いているために、真実が書かれているとか、レオナルドのような特別の人間ではない一市民が冷めた目で書いていることがいかにもルネサンス時代的といったことなど)を再確認するために参考になります。お持ちだと思いますので、再読をお勧めします。
ヴォルテッラについては、ロッソ・フィオレンティーノの十字架降下とルカ・シニョレリの受胎告知がある町という程度の認識でした。そして、ランドゥッチの日記1474年9月25日(略奪の2年後)にヴォルテッラで化け物の子供が生まれ、1512年3月29日には(前年にラヴェンナで化け物が生まれたことと合わせて)「化け物が生まれる都市には何か一大事が起きる。略奪されたヴォルテッラも同じ」と書かれていて、トスカーナの都市の中では少し不気味な町というイメージを持っていました(ロッソ・フィオレンティーノの絵のイメージもあるかもしれません)。また、平凡社太陽の1995年7月号の特集「トスカーナの誘惑」で、シエナ、ピサ、サン・ジミニャーノ、アレッツォ、ルッカ、コルトナを取り上げているのに、ヴォルテッラのことは書かれていなくて、掲載されているイラスト地図には地名も載っていません。これらの町と比べ、美術品や食べ物などには魅力的なものがないのかと思っていました。
将来行くべき町の候補とするかどうかという観点から、ルネサンスの美術品で何か見るものがあるかを調べてみました。NTT出版のイタリア旅行協会公式ガイド3フィレンツェ/イタリア中部のヴォルテッラの項目を見ると、ロッソ・フィオレンティーノの十字架降下以外では、大聖堂にベノッツォ・ゴッツォリのフレスコ画東方三博士の行列(手前に浮彫りのテラコッタでロッビア工房作の幼児キリスト礼拝を設置。東京書籍SCALA版12ゴッツォリのP66)、司教区美術館にロッソ・フィオレンティーノの聖母と諸聖人(東京書籍SCALA版21ポントルモ&ロッソのP67)、アントニオ・ポライウォーロの聖オクタヴィアヌスの胸像(下記URL)、市立絵画館にドメニコ・ギルランダイオの栄光のキリスト(東京書籍SCALA版15ギルランダイオのP78)、ルカ・シニョレリの受胎告知及び聖母と諸聖人(東京書籍SCALA版19ルカ・シニョレリのP25とP27)がありました。
https://it.m.wikipedia.org/wiki/File:Antonio_del_pollaiolo,_busto_di_sant%27ottaviano,_1470,_in_argento_e_rame_dorato,_dal_duomo_di_volterra_01.jpg
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Antonio_del_pollaiolo,_busto_di_sant%27ottaviano,_1470,_in_argento_e_rame_dorato,_dal_duomo_di_volterra_04.jpg
ロッソの十字架降下とシニョレリの受胎告知以外はそれほど見たいと思うものでもありませんが、これだけの数の作品があるならば、将来行く場所の候補としてもいいかと思います(まずはサン・ジミニャーノ、ルッカ、ボローニャなどが優先ですが)。また、上記のガイドブックでは町一番の高みにある要塞(牢獄)のことも書かれていて、現在も刑務所として使われていて(当然ですが)見学は不可だそうです。観光で行く場所のすぐ隣にこういう施設があるのもちょっと不気味な感じがします。