東京でカラヴァッジョ 日記

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《犠牲者》と《出雲崎の女》-「背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和」展(練馬区立美術館)

2020年03月03日 | 展覧会(日本美術)

生誕140年記念
背く画家   津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和
2020年2月21日〜4月12日
練馬区立美術館
 
   東京国立近代美術館が所蔵する《犠牲者》。小林多喜二の獄死に触発され、十字架のキリスト像のように描かれた本作、そのインパクトで作品自体の印象は強く残っていたが、その作家名までは記憶していなかった。
 
   その《犠牲者》の作家の初の回顧展が開催されると知って、訪問タイミングを見計らっていたところ、先の週末(2/29〜3/1)は開館とある、で訪問する。作家の知名度のためか、この情勢のためか、展示室は空いている。
 
   津田青楓(1880〜1978)。長命である。図案家であり、洋画家であり、日本画(南画)家である青楓。夏目漱石と交友し、河上肇と交友し、良寛に私淑した青楓。本展は、青楓が活動した3分野を3人を軸にして紹介している。
 
 
   京都生まれの青楓。16歳から画家の修業を始めるが、1900年、20歳のときに兵役に取られる。看護手を務め、1903年に満期除隊するも、翌1904年の日露戦争の勃発により、再度召集されて従軍。203高地の激戦に居合わせたとのこと。戦争終了翌年の1906年に除隊。
 
   1907年、画家を目指していた山脇敏子(1887-1960、のちに現・山脇美術専門学校を創設)と結婚。また、農商務省海外実業練習生に採用され、フランスに留学。その話を聞いた安井曾太郎は俺も一緒に行きたいと私費で同行している。青楓は、ルーヴル美術館に行くと、フランス近代美術には関心を示さず、もっぱらエジプト美術やギリシャ美術に夢中であった、と当時パリ滞在中の高村光太郎が記している。1910年、金銭的余裕がないためフランス以外の国を訪ねることもなく、帰国する。ちなみに安井曾太郎は第一次大戦が勃発する1914年まで滞在し、その間英・伊・西などを旅行したらしい。青楓もイタリアとか行きたかっただろうなあ。
 
   帰国の翌年1911年に上京し、夏目漱石との交友が始まる。本展では、青楓が装幀した漱石の書籍や、漱石と門下生11人を描いた作品、軸装した漱石からの書簡(世の中にすきな人は段々なくなります、さうして天と地と草と木が美しく見えてきます、ことに此頃の春の光は甚だ好いのです、私は夫をたよりに生きてゐます)、漱石の死に顔のスケッチ(の写真が掲載された冊子。スケッチ実物は関東大震災で消失)などが展示される。
 
   ここまでが第1章「因習に背く   図案から美術へ」。初期の青楓、図案家としての青楓が主に紹介される。
 
 
   続く第2章は「帝国に背く 社会派の画家」、洋画家としての青楓が、河上肇との交友とともに、紹介される。
 
   まず感心したのは、本展出品作を見る限り、青楓の洋画系作品の大半が、女性を描いた作品であること、それもヌードを描いた作品であること。青楓は洋画家と日本画家と図案家の活動を平行して行っていたようなので、洋画家としては、女性を、それもヌードを描くと決めていたのかもしれない。社会派的な作品は、当時の情勢により消失したのかもしれないけれど、《殉教者》は青楓の作品としては結果的には例外的な存在であるようだ。
 
   1914年に創設された二科会、その創設メンバーとして、二科会に出品し続けている。
 
 
津田青楓
《婦人と金絲雀鳥》
1920年、東京国立近代美術館
   妻の山脇敏子をモデルとした作品。装飾的な金の衝立を背景に、黄色の鳥のいる中国製?の鳥かごを足元に、椅子に座る目鼻口が大きめな女性。
 
 
津田青楓
《出雲崎の女》
1922年、東京国立近代美術館
   1922年、良寛の出身地・新潟県出雲崎の良寛堂の開堂式に招かれた青楓。本作は、その時に宿泊した宿屋の娘をモデルに描いた作品である。
   ソファーの上に横たわり、茶色系のエキゾチックな色の肌をして、鑑者の方に視線を向けるフルヌードの女性。団扇や黒猫など道具立ても凝っている。窓から見える海、出雲崎は海辺の村である。
   青楓は、モデルについて「顔かたちにとても特殊な感覚をもってゐる」との言を残しているようだが、1920年代という時代に、地方の村で、芸術や芸術家とは縁がなかったであろう一般人女性をよく口説き落とせたものだ。本当にヌードにさせたのであれば、青楓は女性の扱いがよほど得意であったのだろう。
 
 
   この2作品は、1923年9月1日に開幕する第10回二科展に出品される。
 
   会場は東京府美術館。青楓は漱石の門下生である寺田寅彦と会い、会場を案内し、喫茶店で休憩する。青楓は、《出雲崎の女》のモデルの女性の夫から撤回要求されていて困っている、なんてことを寺田に話していると。
 
   11:58、関東大震災発生。
 
   青楓は寺田を置いて逃げ出したらしい(寺田はその揺れや建物の造りなどをじっくり見て、これならこの建物は倒壊しないだろうなどと観察に没頭していたようだ)が、会場にいた作家を助けたりするなどして、自宅に戻り、その日は庭で一夜を過ごす。これでは東京にはいられないと、出身地・京都に移る。
 
   間もなく、河上肇との交友が始まる。
 
津田青楓
《研究室に於ける河上肇像》
1926年、京都国立近代美術館
 
   青楓は、河上に対し、離婚や子どもの親権のことなど極めて個人的なことも相談していたらしい。
   当時の妻・山脇敏子は、1922年からフランスに単身留学、関東大震災時もフランスにいる。帰国は1924年のこと。その間、青楓は新しい女性との付き合いを始める。その女性の妊娠がきっかけか、1926年に離婚が成立、その半年後に青楓は再婚する。山脇敏子は、傷心のまま画家を諦め、服飾の道に活路を求める(結果、大成する)。
 
    一方、洋画家としての青楓の活動は活発で、京都・名古屋・東京に画塾を開く。その画塾生4人の作品も展示されているが、そのなかでは北脇昇(1901-51)の2点《マート》と《裏町》に惹かれる。正直、青楓より北脇のほうがいいな。世代は違うけど。
 
 
津田青楓
《犠牲者》
1933年、東京国立近代美術館
 
   本展の一番の見どころ。
   他の展示室の壁紙が白であるのに対し、この展示室の壁紙は黒。
   《犠牲者》が教会の祭壇画のように展示される。
    その前には他作家によるブロンズの「小林多喜二デスマスク」が置かれ、右手には《犠牲者(習作)》と他作家によるプロレタリアポスター、左手には大月源二(1904-71)による右翼団体員に刺殺された労働農民党出身の代議士・山本宣治の埋送場面を描いた油彩画とデスマスクのスケッチが展示される。
   多翼祭壇画のような配置は圧巻。
 
 
   黒の展示室と向かい合った白の展示室には、青楓《ブルジョワ議会と民衆生活(下絵)》とその完成作の絵葉書。そして1933年8月の青楓に関する新聞記事のスクラップブック。
 
   青楓《ブルジョワ議会と民衆生活》は、1931年の二科会に出品されるが、警視庁から問題視され、画面下部にコラージュとして貼られたマルクス『賃労働力と資本』の文章を撤回させられるとともに、題名を《新議会》に変更させられている。
 
   そして、1933年、杉並・天沼の青楓の自宅を官憲に捜索され、拘留され、転向を誓約をすることで約半月後に釈放される。スクラップブックの新聞記事には、津田画伯「転向」「日本画界へ更生」「廻れ右」との見出し。そして、青楓は、洋画を断筆し、二科会を脱会し、京都・名古屋・東京にあった画塾を解散する。
 
    《ブルジョワ議会と民衆生活》の完成作は、このとき官憲に押収されて消失。制作途中であった《犠牲者》は、何とか隠しおおせることができた。《犠牲者》が一般に公開されるのは1950年のことである。
 
   この展示室には、他に、激しい波しぶきを描いた1932-33年の作品3点(うち1点は超大型サイズ)も展示。この激しい波しぶきについて「息苦しい世相に対する不平不満を表明」しているとの解説がある。
 
 
   以上で第2章が終了。続く第3章「近代に背く   南画の世界へ」は、日本画(南画)家としての青楓が紹介されるが、興味が湧かずほぼ素通りする。
 
 
   津田青楓の明治・大正・昭和(8年まで)を見てきたが、私的には、もっぱら洋画部門を楽しむ。そのなかでは《出雲崎の女》にえらく惹かれたというところである。


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