コロナ過で国民は精神的にも肉体的にも不健康な状態に置かれている、我々日本人だけでないから救いようは有るが、筆者が生きて来た74年間を振り返って、行動した事、かなわなかった事を再考しながら書いて見ます。
基本田舎生まれの田舎育ちで有って、都会志向で東京に来ただけです。その東京もこんな物かと、取り合えず小銭を稼ぐには都合が良いと考え、後先を深く考えずに思いつくまま行動して見ようと、その第一がなるべく早く海外に身を置く事だと、東京に出たからには英語位は少し出来るようにならなければと、教材等を買い入れた、語学スクールにも少しだけ通った、英語は手段と言うかツールで有れば良いと考える様になり、稼ぐ手段をアレコレ考えた、勤め人になっても長期とは考えていないから、将来自分が何をするかで考えた、3つ位の候補が有ればどれかで、10年から15年は生きていけるで有ろう職を模索する、その為には数年で1つの職を経験する事、30才までには海外に行かねばならないから、この間に3つの職の経験は諦めて、2つは経験しようと、世の中で今と将来でどれが存続しているか、と考え当時はコンピュータ関連が注目度が高いのでこれを収入と何かの役には成るだろうと、選択する、高価な機械で有ったから9時から5時まで使う事など、どの企業でも考えていなくてフル回転状態で有った、残業当たり前、徹夜当たり前の職業で、そこで働く人材は疲弊していた、これは長くないぞと次の職を考える様になって、コンピュータを使うための教育は無くならないかもと、考えこの方面に転職する、この次は海外しかないので、友人が旅行社で働いていた関係で安くツアーに潜り込める手段が有れば教えてと、頼んで有った。その一つに社員旅行で飛行機をチャーターする団体が有り、そこには何人もの社員がツアーコンとして行くので1人ならOKとなり行く事になる、但し無料ではなく数万円を払った。
そんな事が切っ掛けで、コンピュータ教育を活かして、本場で有る米国での社員実習を兼ねてどう使っているかの企画を考え付いた、その企画で10名前後の会社員を米国に連れて行く、企画者とツアーコンを兼ねて年数回は出掛けたから、やり方は分った、取り合えず1年は暮らせるで有ろう貯金も出来たのでなるべく早く暮らしたいと考えて候補地を決めた、こんな事で悩まないから早いが、残念ながら行った年は天候不順で雨と寒さが多い英国で有った、これは正直間違えたので1年でなく8カ月で諦めて、数か月は他の欧州を見て回り、東南アジアを経由して帰国する。
資金がショートしたので次回は米国と決めていたので資金稼ぎする、1年を暮らせる資金が出来たので、躊躇なく出かけた、そこは当時名が知れていたシリコンバレーで有る、コンピュータやハイテク産業のメッカで有ったから選定は間違ってないが、何せ広い国で交通手段が自家用車だから、この分のお金は用意してなく最低限の移動として自転車を購入する。
調べもので図書館には頻繁に行く、会社も多く存在していたので、飛び込みで話を聞かせてもらった、ベンチャーキャピタルからスタートアップした会社、近くのスタンフォード大学での講座にも参加したりと充実していた、近くの公園でテニスも上手になり、何より天気が良いから毎日気分が良い、住宅地に有る平屋の家の1部屋が借りられた、街自体に2階建ては少なく250坪位の土地に平屋で前後には庭が有る、アメリカ映画に出る風景を共有してしまった。
暮らしたりその他の海外を見て回り、暮らし易さや人種、物価や不動産の違い等多くを吸収した人生で有るが、最終的と言うかがんサバイバーになったから余生は日本と決めた、医療費の違いは有るし、細かな病状は日本語で伝えた方が良いに決まっている、この間に海外関連で数千万円は使ったが、苦ではない、活かせなかったががん家系と言う遺伝子を持っているから、選択の余地はない、東京には住みたくないが病院を優先しなければならない、普段は元気そうだが幾つもの病を抱えている、日本は無くならないが今後は落ちて行くだけで有る、バブル以降の落ち込みは甚だしい、給料がこの20年上がらない国になってしまった、産業力も失った、かって日本が優位な産業も韓国と中国に並ばれたり、追い越された。
何が不味いかは1に政治、2に公務員の役目、3に産業人に日本を世界に引っ張っていく気構えがない、これでは世界に勝てないのがハッキリしている、しかし日本人は総額で約2千兆円もの資産が有ると言われているが負も多い国だから、将来が安心とは言えない国だ。
都会暮らしの人も、半数は田舎者だから地方で暮らせると思っている、9月になって天候不順で野菜の生育が十分でない、品不足で高騰している、最終的には飲み水と食料が有れば生きていけるので、様々な事を検討して地方移転で食べられる野菜を作りながら暮らせればそれが最良の選択と思っている。