若くて 血気盛んなころだった。だいぶ 余も更けている。しかし、今日も
残業は続いていた。戦後間もなくのころである。爆撃で事務所の内部はコンクリートが
むき出しになっていた。裸 電球を頼りに 伝票とそろばんを操りながら 一日の集計を
終わるまでは 変えるわけにはいかない。
主任と 係長も資金繰り表 とにらめっこして 明日の準備が余念がない。
私は入社して 3月も過ぎていた。初任給3000円はつらかった。下宿代払ったら500しか残らない。
上にしても斜めに見ても500円は500円である。規則では3か月たったら 定期賃金に移る
はずだ。
「係長 私4か月になろうとしているのですが、昇給はないのですか。」毎月残業100時間
超えていますよ」その頃は怖いものなしである。
そんなある日、同じように残業していたら 業務局長が東京出張から帰ってきたと 東京土産を
持ってきた。「ご苦労さん」と言いながら係長、主任にお土産を渡した。人格者として評判の局長である。
私に一瞥を与えて去っていった。
「おいこら 待て」と言おうとして セキを立ち上がった時 主任が私を抑えた。
【我慢 我慢」 何が我慢だよ。何が人格者だよ。根性が曲がってる。
見るのも嫌な上司だったが、しばらくして 出身大学の教授の紹介で 教育畑に転身した。
教頭は京都大学出身の苦労人で、高等学校時代の教授である校長を支えて20年 木養育人寿司委゛に
生きた人だろう。くしくも私の結婚式に二人の上司を招いた。全く対照的な二人の上司に貸しづいてみて
私は 貴重な人生の宝物をいただいた気゛している。前者は石橋をたたいても渡らぬ人と言われた上司で
後者は時代の先取りを得意とする感性豊かな上司。人に巡り合うことは金銭に代えがたい大切な財産である。