今朝の新聞に九州小倉にあった 兵器補給症の記事が掲載されていた。
玄界灘の北風の冷たい 時だった。山口市の秋元しげ子さんの日記から引用されていた。
当時、兵器補給症では風船爆弾というものが 作られていたという話は聞いていた。
我々男子生徒は もっぱら高射砲の砲弾の荷作り作業が主であった。2か月の作業であったが
毎日徹夜のつらい作業だったことを覚えている。
昨年 小倉に行く機会があって 補給しようがあった 魚町当たり和見て歩いた。
それこそ 一億火の玉作戦で 名古屋の軍事工場に派遣され 海軍の偵察機を作らせられた。
腹が減って 飛行機の操縦席に入って仕事していると つい睡魔に襲われて寝込んでしまうことがあり
その都度どやされた。
このままでいいのか、悩まされているとき 海軍特別練習生の募集があった。
これに応募したら 郷里に帰ることができるというので 軍隊を志望した。
敗戦の日まで 教育されていたが 突然の配線。茫然としたね。私たち日本人にとっては悪夢
の10年間だった。昭和30年以降 第一次のバブルの時代に入っていくのであるが
政治家諸侯には理解できないだろう。せいぜい中近東の現在の世界だと思えばよろしい。