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朝の光(聖書の言葉)

ガラテヤ人への手紙 1  1,2章  解説  


ガラテヤ人への手紙 1.  1,2章 解説 



ガラテヤとは,

今のトルコの中心あたりの地域です。


第3伝道の途上,

エペソで53-54年にパウロが書きました。

(ほかの説もあります。)


正しい福音を示すために書かれています。


福音とは,

イエス・キリストを信じる者に

祝福を与えるものです。



「信仰→聖霊を受け→祝福を受ける」が,

一つの説明です。


祝福とは,義とされることをはじめ,

神による恵みのすべてです。


1,2章 パウロの福音が唯一

3,4章 神の救いの計画を
    旧約聖書に基づいて説明

5,6章 互いに愛することは
    キリストの律法を完成する。




1章



使徒パウロ

(ガラテヤ1:1)
「人々からでもなく,
人によってでもなく,
イエス・キリストと彼を
死人の中からよみがえらせた
父なる神とによって
立てられた使徒パウロ,」


パウロは使徒となった経緯を

述べています。


「使徒」とは,

特に使命をもって遣わされた人です。

その意味では,わたしたちも,使徒であります。




恵みと平安

(ガラテヤ1:1-5)
「人々からでもなく,
人によってでもなく,
イエス・キリストと
彼を死人の中からよみがえらせた
父なる神とによって
立てられた使徒パウロ, 
ならびにわたしと共にいる
兄弟たち一同から,
ガラテヤ諸教会へ。 
わたしたちの父なる神と
主イエス・キリストから,
恵みと平安とが,
あなたがたにあるように。 
キリストは,
わたしたちの父なる神の御旨に従い,
わたしたちを今の悪の世から
救い出そうとして,
ご自身をわたしたちの罪のために
ささげられたのである。 
栄光が世々限りなく神にあるように,
アァメン。」


ここで福音を宣べています。


イエス・キリストは,

わたしたちの罪のために

十字架にかかってくださいました。


わたしたちが

イエス・キリストを信じるなら,

罪から救い出され,罪がを赦され,

恵みと平安が与えられます。





福音

(ガラテヤ1:6)
「私は,キリストの恵みをもって
あなたがたを召してくださったその方を,
あなたがたがそんなにも急に見捨てて,
ほかの福音に移って行くのに
驚いています。」


ここでの「ほかの福音」

(誤った福音)とは,割礼を受け,

律法を守らないと

救われないというものです。


パウロの伝える福音とは,

イエス・キリストを信じることによって

救われるというものです。




「福音を曲げる」

(ガラテヤ1:7)
「それは福音というべきものではなく,
ただ,ある種の人々が
あなたがたをかき乱し,
キリストの福音を
曲げようとしているだけのことである。」


「福音を曲げる」とは,

救いのためには,

イエス・キリストを信じるだけでは

不十分だというものです。


ガラテヤの教会では,

救いのために割礼が必要だという

誤った教えが入ってきました。




福音に反する宣教


(ガラテヤ1:9)
「わたしたちが前に言っておいたように,
今わたしは重ねて言う。
もしある人が,
あなたがたの受けいれた福音に
反することを宣べ伝えているなら,
その人はのろわるべきである。」


福音に反することを宣べることが,

大きな誤りであることを警告します。




イエス・キリストの啓示


(ガラテヤ1:11,12)
「兄弟たちよ。
私はあなたがたに知らせましょう。
私が宣べ伝えた福音は,
人間によるものではありません。
私はそれを人間からは受けなかったし,
また教えられもしませんでした。
ただイエス・キリストの啓示によって
受けたのです。」


パウロの宣べ伝えた言葉は,

神の啓示によるものです。


わたしたちが,

パウロの手紙を

神の言葉として受け入れるのは,

ここにあります。


福音は人間によるものでは,ありません。


福音とは

イエス・キリスト御自身のことです。



(ローマ1:2-4)
「この福音は,
神がその預言者たちを通して,
聖書において前から約束されたもので,
御子に関することです。
御子は,
肉によればダビデの子孫として生まれ,
聖い御霊によれば,
死者の中からの復活により,
大能によって
公に神の御子として示された方,
私たちの主イエス・キリストです。」


啓示とは,

隠れているものを明らかにするという

意味をもっています。


人間の力では認識できないことが,

神によって明らかにされることです。





2章



信仰による義

(ガラテヤ2:16)
「けれども,人は律法の実行ではなく,
ただイエス・キリストへの信仰によって
義とされると知って,
わたしたちも
キリスト・イエスを信じました。
これは,律法の実行ではなく,
キリストへの信仰によって
義としていただくためでした。
なぜなら,律法の実行によっては,
だれ一人として義とされないからです。」


「愛によって働く信仰・・・・」


ガラテヤの教会では,

ユダヤ主義の異端が入っていました。


ユダヤ主義とは,救いには,

イエス・キリストを信じるだけでなく

割礼を受けなければ

ならないというものです。


また,ユダヤ主義者は,

パウロの使徒職について攻撃しました。


これらの問題に対してパウロは,

この手紙を書きました。


(ガラテヤ2:15,16)
「私たちは,
生まれながらのユダヤ人であって,
異邦人のような罪人ではありません。
しかし,人は律法の行いによっては
義と認められず,
ただキリスト・イエスを信じる
信仰によって義と認められる,
ということを知ったからこそ,
私たちもキリスト・イエスを
信じたのです。
これは,律法の行いによってではなく,
キリストを信じる信仰によって
義と認められるためです。
なぜなら,律法の行いによって
義と認められる者は,
ひとりもいないからです。」





義認 (2)

(ガラテヤ2:16)
「しかし,人は律法の行ないによっては
義と認められず,
ただキリスト・イエスを信じる
信仰によって義と認められる,
ということを知ったからこそ,
私たちも
キリスト・イエスを信じたのです。
これは,律法の行ないによってではなく,
キリストを信じる信仰によって
義と認められるためです。
なぜなら,律法の行ないによって
義と認められる者は,
ひとりもいないからです。」


神は,わたしたちを罪から救い,

義としてくださっています。


わたしたちは,

信仰によって受け取ることができます。


「義と認められる」とは,

神の前に義であると宣言され,

神の律法を守れないで

罪を犯したとされる場合にも,

キリストの贖いのゆえに,

「義と認められます」。


法廷用語であって,

「義と認める」の主体は

裁判官としての神です。


神が人を義と認めるのは,

その無罪を宣言することです。


「信仰」は,

キリストにすべてを委ねることで,

キリストに示された神の恵みに

根拠をおいています。


「知った」とは,

人が神の恵みをその人の人生全体で

受け入れることです。


神の義については,

ローマ書には次のように書かれています。


(ローマ3:21-24)
「しかし,今は,律法とは別に,
しかも律法と預言者によって
あかしされて,
神の義が示されました。
すなわち,イエス・キリストを信じる
信仰による神の義であって,
それはすべての信じる人に与えられ,
何の差別もありません。
すべての人は,罪を犯したので,
神からの栄誉を受けることができず,
ただ,神の恵みにより,
キリスト・イエスによる贖いのゆえに,
価なしに義と認められるのです。」




パウロは恵みによって救われることを,

エペソ書に次のように書いています。


恵みによる救い

(エペソ2:5)
「罪過の中に死んでいた
この私たちをキリストとともに生かし,
・・あなたがたが救われたのは,
ただ恵みによるのです。」



イエス・キリストのわたしたちへの愛は,

命の犠牲を伴い,

身代わりの罰を受ける愛です。


それは,命の血を流し,

神の一人子であるイエス・キリスト

の十字架の業です。


わたしたちには,

悔い改め,信じることが要であります。


そうすると,

私たちの人生は創造のときに回復し,

神の目的に合致するようになります。




恵みと信仰


(エペソ2:8)

「あなたがたは,

恵みのゆえに,

信仰によって救われたのです。

それは,

自分自身から出たことではなく,

神からの賜物です。」


イエス・キリストの受肉,

生涯,十字架,復活によって,

神は私たちに恵みを与えてくださいます。


人は福音の内容を信じ,

イエスを自分の救い主として

認めることによって救われます。




自由


(ガラテヤ2:4,5)
「それは,
忍び込んできたにせ兄弟らがいたので
―彼らが忍び込んできたのは,
キリスト・イエスにあって持っている
わたしたちの自由をねらって,
わたしたちを奴隷にするためであった。 
わたしたちは,
福音の真理があなたがたのもとに
常にとどまっているように,
瞬時も彼らの強要に屈服しなかった。」



わたしたちは,

イエス・キリストを信じる前は,

罪,悪魔,この世の奴隷でした。


イエス・キリストを信じたとき,

そこから解放され,自由とされました。


イエスは次のように言っています


(ヨハネ8:36)
「もし子があなたがたに
自由を得させるならば,
あなたがたは,
ほんとうに自由な者となるのである。」


(ガラテヤ5:1)
「自由を得させるために,
キリストはわたしたちを
解放して下さったのである。
だから,堅く立って,
二度と奴隷のくびきに
つながれてはならない。」




神に生きる   (1)


(ガラテヤ2:19,20)
「私は,神に生きるために,
律法によって律法に死にました。
私はキリストとともに
十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく,
キリストが私のうちに
生きておられるのです。
いま私が,この世に生きているのは,
私を愛し私のために
ご自身をお捨てになった
神の御子を信じる
信仰によっているのです。」


イエスを信じたとき,

古い私は死に,

キリストが生きるのです。


新しい人生が始まります。


この言葉は,

パウロの個人的な体験です。


わたしたちが,

イエス・キリストを信じて歩むことは,

わたしたちが主と共に死に,

主の復活と共に生きることです。



この業は聖霊によってなされます。


「私はキリストとともに

十字架につけられました」とは,

古い罪の力に支配された生活に死に,

キリストの復活の命に生かされることです。


パウロは,ローマの手紙では

次のように表現しています。

(ローマ6:6)
「わたしたちは,この事を知っている。
わたしたちの内の古き人は
キリストと共に十字架につけられた。
それは,この罪のからだが滅び,
わたしたちがもはや,
罪の奴隷となることがないためである。」


(ローマ6:11)
「このように,
あなたがた自身も,
罪に対して死んだ者であり,
キリスト・イエスにあって
神に生きている者であることを,
認むべきである。」


イエス・キリスト御自身は,

次のように言います。


(マタイ16:24-26)
「イエスは弟子たちに言われた。
『だれでも
わたしについて来たいと思うなら,
自分を捨て,自分の十字架を負い,
そしてわたしについて来なさい。
いのちを救おうと思う者はそれを失い,
わたしのためにいのちを失う者は,
それを見いだすのです。
人は,たとい全世界を手に入れても,
まことのいのちを損じたら,
何の得がありましょう。
そのいのちを買い戻すのには,
人はいったい
何を差し出せばよいでしょう。』」



パウロが,

イエス・キリストの内にある

恵みを語りますが,

そのためには,

イエス・キリストと共に死に,

共に生きることが必要です。


(1コリント1:30)
「しかしあなたがたは,
神によって
キリスト・イエスのうちにあるのです。
キリストは,私たちにとって,
神の知恵となり,
また,義と聖めと,
贖いとになられました。」






十字架につけられる  (2)

(ガラテヤ2:19,20 新改訳)
「しかし私は,神に生きるために,
律法によって律法に死にました。
私はキリストとともに
十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく,
キリストが私のうちに
生きておられるのです。
いま私が,この世に生きているのは,
私を愛し私のために
ご自身をお捨てになった神の御子を
信じる信仰によっているのです。」



パウロの個人の体験です。

また,イエス・キリストを信じる者の

生き方でもあります。


パウロは律法のもとにある古い命が,

キリストへの信仰に基づいた

新しい命に変わったことを意味します。




「神の子なるイエス」(新聖歌342)


 神の子なるイエス わが心に

 住まわせ給もう 妙なるかな

(折り返し)

 わが内に主は在す

 奇しくも妙なり

 わが内に在す主は

 来るべき王なり




 かくも主は悩み かくも愛し

 主の花嫁と われをなしぬ



 されど幾たびも 主を苦しめ

 畏き御旨 われは裂きぬ



 全て主は赦し 前のごとく

 御胸に抱き 愛し給う



 イエスはわが持てる

 全てなれば

 乏しきことも 弱きもなし


※妙なる=すぐれてすばらしい・天来の美しさ

※奇(くす)しくも=不思議で

※裂きぬ=痛めた







十字架につけられる  (3)


(ガラテヤ2:20)
「生きているのは,
もはや,わたしではない。
キリストが,
わたしのうちに生きておられるのである。
しかし,わたしが
いま肉にあって生きているのは,
わたしを愛し,
わたしのために
ご自身をささげられた神の御子を
信じる信仰によって,
生きているのである。」



イエス・キリストを信じる者は,

イエス・キリストと共に十字架につけられ,

共によみがえるのです。


そして,聖霊に導かれた歩みをします。


ペンテコステに注がれた,

聖霊は信じる者のうちに宿り,

御霊の実を結びます。


1.
(ガラテヤ5:24)
「キリスト・イエスに属する者は,
自分の肉を,その情と欲と共に
十字架につけてしまったのである。」

2.
御霊に生きる
(ガラテヤ5:25)
「もしわたしたちが
御霊によって生きるのなら,
また御霊によって進もうではないか。」

3.
御霊の実
(ガラテヤ5:22,23) 
「御霊の実は,
愛,喜び,平和,
寛容,慈愛,善意,
忠実,柔和,自制であって,」






もはや,わたしではない  (4)

(ガラテヤ2:19,20 口語訳)
「わたしは,神に生きるために,
律法によって律法に死んだ。
わたしはキリストと共に
十字架につけられた。
生きているのは,
もはや,わたしではない。
キリストが,
わたしのうちに生きておられるのである。
しかし,わたしが
いま肉にあって生きているのは,
わたしを愛し,
わたしのためにご自身をささげられた
神の御子を信じる信仰によって,
生きているのである。」


パウロの体験から生じている言葉です。


イエス・キリストを信じる者の実態も

この言葉と同じです。


イエス・キリストとわたしたちが,

チェンジ(交換)しているのです。



♪ 「生くる甲斐もなしと」

(新聖歌111)

1.
いくるかいもなしと一人 
さだめたりし者を
死をもとして救いませる 
深きイエスの愛よ
十字架!十字架!そこにきみは
つきて死にたまえり
十字架!十字架!そこにわれの
罪もともに死せり

2.
罪をそこにつけし今は 
いかで罪に問われん
神にありてつねにきよく 
いくる身にしあれば
十字架!十字架!そこにきみは
つきて死にたまえり
十字架!十字架!そこにわれの
罪もともに死せり

3.
きみのみ手に支えられて 
道をあゆむわれに
み名をほむる讃え歌の 
たゆる時はあらじ
十字架!十字架!そこにきみは
つきて死にたまえり
十字架!十字架!そこにわれの
罪もともに死せり





内なるキリスト (5)

(ガラテヤ2:20) 

「私はキリストとともに
十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく,
キリストが私のうちに
生きておられるのです。
いま私が,この世に生きているのは,
私を愛し私のために
ご自身をお捨てになった
神の御子を信じる
信仰によっているのです。」


「私はキリストとともに

十字架につけられました」とは,

キリストが十字架の上で,

わたしの代表者として死んだのですから,

キリストが死んだとき

わたしも死んだのです。



「キリストが私のうちに生きておられる」とは,

わたしがキリストの支配の下にあることを

示しています。


わたしたちが

イエス・キリストを信じるなら,

わたしたちのこころのうちに

キリストが入り住むのです。


(ローマ5:23-25)
「『義と認められた』と書いてあるのは、
アブラハムのためだけではなく、 
わたしたちのためでもあって、
わたしたちの主イエスを死人の中から
よみがえらせたかたを信
じるわたしたちも、
義と認められるのである。 
主は、わたしたちの罪過のために
死に渡され、
わたしたちが義とされるために、
よみがえらされたのである。」 


(ローマ6:6)
「 私たちの古い人がキリストとともに
十字架につけられたのは,
罪のからだが滅びて,
私たちがもはやこれからは
罪の奴隷でなくなるためであることを,
私たちは知っています。」





♪ (新聖歌342)
「神の子なるイエス 
わが心に
住(す)まわせ給う 
妙(たえ)なるかな
わが内に主は在(い)ます 
奇(くす)しくも妙なる
わが内に在す主は 
来るべき王なり」


(コロサイ1:27)
「神は聖徒たちに,
この奥義が異邦人の間にあって
どのように栄光に富んだものであるかを,
知らせたいと思われたのです。
この奥義とは,
あなたがたの中におられるキリスト,
栄光の望みのことです。」





3章


信仰によって聖霊を受ける

(ガラテヤ3:2b)
「あなたがたが御霊を受けたのは,
律法を行ったからですか。
それとも信仰をもって
聞いたからですか。」


信仰によって,御霊を受けました。




聖霊を受けるのは,

律法を行ったからではありません。


わたしたちは福音を聞いて,

信仰によって,

聖霊を受け取ります。




(ガラテヤ3:1-6)
「ああ愚かなガラテヤ人。
十字架につけられたイエス・キリストが,
あなたがたの目の前に,
あんなにはっきり示されたのに,
だれがあなたがたを迷わせたのですか。
ただこれだけを
あなたがたから聞いておきたい。
あなたがたが御霊を受けたのは,
律法を行ったからですか。
それとも信仰をもって聞いたからですか。
あなたがたはどこまで
道理がわからないのですか。
御霊で始まったあなたがたが,
いま肉によって
完成されるというのですか。
あなたがたが
あれほどのことを経験したのは,
むだだったのでしょうか。
万が一にもそんなことはないでしょうが。
とすれば,あなたがたに御霊を与え,
あなたがたの間で奇蹟を行われた方は,
あなたがたが律法を行ったから,
そうなさったのですか。
それともあなたがたが
信仰をもって聞いたからですか。
アブラハムは神を信じ,
それが彼の義とみなされました。
それと同じことです。」




信仰義認

(ガラテヤ3:6-8)
「アブラハムは神を信じ,
それが彼の義とみなされました。
それと同じことです。
ですから,
信仰による人々こそ
アブラハムの子孫だと知りなさい。
聖書は,神が異邦人をその信仰によって
義と認めてくださることを,
前から知っていたので,
アブラハムに対し,
『あなたによって
すべての国民が祝福される』
と前もって福音を告げたのです。」



イエスを信じる信仰によって,

わたしたちは義

(神によって正しいとみなされる)

とされるのです。


律法の行うことによっては,

義とされません。





信仰による祝福


(ガラテヤ3:9)
「信仰による人々が,
信仰の人アブラハムとともに,
祝福を受けるのです。」


アブラハムは信仰によって祝福を受け,

義と認められます。

わたしたちも同じです。

神の子のイエス・キリストを信じて,

祝福を受け義と認められます。


私たちは,

イエス・キリストを信じることによって

アブラハムの祝福を受けます。


わたしたちは,

イエス・キリストを信じることによって,

御霊が与えられ,

神に義と認められ,

祝福が与えられるのです。




(ガラテヤ3:6ー9)
「アブラハムは神を信じ,
それが彼の義とみなされました。
それと同じことです。
ですから,信仰による人々こそ
アブラハムの子孫だと知りなさい。
聖書は,神が異邦人をその信仰によって
義と認めてくださることを,
前から知っていたので,
アブラハムに対し,
『あなたによって
すべての国民が祝福される』
と前もって福音を告げたのです。
そういうわけで,信仰による人々が,
信仰の人アブラハムとともに,
祝福を受けるのです。」




信仰によって聖霊を受ける(2)

(ガラテヤ3:2b)
「あなたがたが御霊を受けたのは,
律法を行ったからですか。
それとも信仰をもって
聞いたからですか。」




アブラハムに与えられた祝福

「信仰による義認」という祝福

(創世記15:6)


すべての人々に約束された祝福

(創世記12:3)


イエス・キリストへの信仰により、

そして約束された聖霊を通して与えられます。


それは、

アブラハムの祝福と同等の

ものとしてでなく,

その頂点として与えられています。




信仰による義人は生きる


(ガラテヤ3:11)
「そこで,律法によっては,
神のみまえに義とされる者は
ひとりもないことが,
明らかである。
なぜなら,
『信仰による義人は生きる』
からである。」


信仰によって生きる


(ローマ1:17)
「なぜなら,
福音のうちには神の義が啓示されていて,
その義は,
信仰に始まり信仰に進ませるからです。
『義人は信仰によって生きる』
と書いてあるとおりです。」


(ハバクク2:4)
「見よ。彼の心はうぬぼれていて,
まっすぐでない。
しかし,
正しい人はその信仰によって生きる。」







2019-08-09





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