脚本『明和義人ものがたり』子ども版

写真は21番の絵カード

明和義人ものがたり』という紙芝居を、以前作りました。
その、子ども版も『いいのかな』というタイトルで作ったのですが、いまいち利用できるものではありませんでした。
昨年、小学校に訪問した会員さんから、子ども向けにわかりやすいものをという要望が出たので、自分でも試行錯誤して1年ほどたち、なんとか直してみました。
自宅にある複製品をバラして絵カードを並べ変え、不要なものをはずし、脚本を直して上に重ね貼りしました。直したものは、自宅に保管してあります。今月31日には、大和デパート跡のふれ愛古町で実演予定を入れておいたので、場所柄、どなたかがやってくれるといいと思っています。
 
会員でない方がやる方法は、
まず、図書館に『明和義人ものがたり』の紙芝居の予約を入れて取り寄せます。
そして、4,5,29,30 の4枚のカードを除けて他のカードを下記のように並べかえます。使うカードは全部で27枚で時間にすると8分です。

1番目は・・・1番のカード(左下に①と書いてあります)
2番目は・・・25番のカード
3・・・・・・2
4・・・・・・6
5・・・・・・7
6・・・・・・3
7・・・・・・8
8・・・・・・9
9・・・・・・10
10・・・・・11
11・・・・・12
12・・・・・13
13・・・・・14
14・・・・・15
15・・・・・16
16・・・・・17
17・・・・・18
18・・・・・19
19・・・・・20
20・・・・・21
21・・・・・22
22・・・・・23
23・・・・・24
24・・・・・26
25・・・・・27
26・・・・・28
27・・・・・31

脚本が、以下の通りですので、プリントアウトするなどしてカードごとに語っていってください。

明和義人ものがたり 
この話の舞台は 1767年。
今年が 2010年で、 引く 1767だから、約240年前の ことだね。
オリンピックが 4年に1回 だから、オリンピック60回分 昔だ。


 その頃、新潟県は 長岡に お城があって、今の 県庁のような 仕事を していた。
お殿様の下には たくさんのお役人がいて、その人たちが仕事をする場所を「奉行所」といった。
今で言えば 市役所のようなもので、もちろん、新潟にも 奉行所が あったんだよ。
場所は、ちょうど 今のネクスト21の ビルのところだ。


 そのころ、西堀や東堀のあたりは こんなふう。道路のところが 堀、つまり 細い川になっているね。
ところで みなさんは、大人が、税金を 市や県に払っていることを知っていますか?
昔は 御用金といって、みんな 長岡のお城に、お金を 納めていたんだよ。
ところが、災害があると お米がよくできないし、仕事が少なければ みんなが貧乏になる。御用金を納めるのも 一苦労で、結局、お城に あんまり お金が入らない。


これでは困ると やってきたのは、お城の使いの 石垣忠兵衛だ。
「これ、町民ども、よく聞くがいい。藩の 財政立て直しのため、
新潟町の者には 合わせて1500両、御用金を 期限までに 支払うようにせよ」


「お役人さま、それは無理だ。近頃 景気が悪くて、ろくに 米も買えん というのに、
どうして そんな大金を 納めることが できようか。」
「ええい、うるさい。奉行所に逆らうなど 許されん。問答無用だ、必ず納めよ」
これを 聞いていたのが、


涌井藤四郎という 男の人だ。
年は50歳くらい。東堀で 呉服屋、つまり着物を売る仕事を していた。
正直で気前がよくて、みんなに 慕われて いたんだって。


そのころは、ひどい不景気で、みんな自分が食べるだけで 精一杯だった。
しかし、藤四郎をはじめとする 町民たちは、厳しい暮らしの中、みんなで協力して、
一五〇〇両の半分にあたる 七五〇両だけはなんとか 納めたそうだ。
けれど、残りを どうすることもできずに、いよいよ 困ってしまってな、


みんなで話し合おうと、こっそり、白山神社近くの、西堀の 本浄寺に 集まった。


「どうやって 金を払えば いいのかなあ。まったく 困ったもんだ」
「わしが言いたいのは 役人たちのことだ。わしらが こんなに苦しんでいるのに、
役人は 税金を 納めていないというではないか」
「それにな、聞いたか。誰かが 米を買い占めて、値段を 吊り上げているっていう 噂だ。」

(半分抜く)
「よし、そいつを 探し出して ひどい目に あわせてやる」


「おい待て、争ってばかりでは いかん。税を もう少し待ってもらうように
申し出ようじゃないか」

藤四郎が言った、その時。


ガタン、
「そこのもの、動いてはならんぞ」
役人たちが 押しかけてきた。
江戸時代は、反対意見を 集めただけで庶民は 牢屋に入れられてしまう、
厳しい きまりが あったそうだ。


「まて、まってくれ」
みんなが叫んだけれど、藤四郎は 捕まってしまった。


「大変だ、藤四郎が つかまったぞ、なんてこった」
「藤四郎を 取り返せ」
「もうがまんできねえ」
「やつらの屋敷を 打ちこわすぞ」


カン、カン、カン、カン、カン・・・・
「おおい、みんな 聞こえるか」
9月26日の夜、
本明寺(ほんみょう寺)の 鐘を合図に人々は 日和山に 走っていったと。
その数、最初は数百。


「えい、えい、おー」
黒覆面の男を 先頭に、人々は山を下り、
御祭堀(ごさいぼり)、広小路(ひろこうじ)、坂内小路(ばんないこうじ)へなだれ込んだ。
次々と あちこち合流して 人の数は膨れ上がっていく。


「金儲けで太った役人は どこだ」
「ここから 出て行け」
「藤四郎を 奪い取れ」


ガーン、バキーン、
人々は 役人や商人の屋敷を 壊していった。
一軒、また一軒。すると、


「おい、鉄砲隊が 来るぞ、みんな 屋根の上に 逃げろ」。
人々は あわてて屋根に上がり、上がったところで つかんだものは、


屋根の石だ。この石を投げ、軒先の薪(たきぎ)を つかんじゃあ、また投げ、
何千何百という人たちが 鉄砲隊と 戦ったそうだ。
これには 役人も兵隊もたまらず、逃げ出していき、


藤四郎は 釈放されたと。それでも 人々の怒りは 翌日も止まず、
騒動は 2日間続き、合わせて20軒あまりの家が打ち壊しに あったそうだ。
数日後、

21
「ほんとに 打ち壊しには びっくりしたねえ。でも、お米も豆腐も 安く買えるようになって
よかったねえ。おとっつあんたちが 話し合いで、そう 決めたんだってさあ」
「へえ、すごいね」

22
その話し合い。
ここは、今の三越デパート裏にある、勝念寺という お寺だ。
「怪我をしたものは、安く治してもらえるといいがな」
「金を借りる金利を 安くしてもらえると 助かるがなあ。」
こうして、人々は、2ヶ月間、藤四郎をリーダーにして、それらを 実行していったそうだ。
こんなことは、封建制の江戸時代には めったにないことで、たとえば、
 
23
市長が ある日突然 バナナの皮で 滑って転ぶくらい、超・珍しいことなんだ。

24
ところが 長岡奉行は 黙って引っ込んでは いなかった。
たくさんの米を 新潟に送り、うまく嘘をついて、藤四郎を 長岡の牢屋に 入れてしまった。
その2年後、藤四郎は 罪人として 新潟町に 送り返され、

25
その年 1769年8月25日の こと。藤四郎は 町なかを引き回され、
そのまま 処刑されたということだ。

26
けれど、町の人は、藤四郎のことを忘れることが出来ない。
だから、隠れて 弔う人がいたそうだ。それも、役人に見つからないように 
あちこちに 場所を移してね。

27
この騒動の記念碑は、街中に いろいろあるんだよ。
西堀の イタリア軒の近く。真城院(しんじょういん)の「二十六夜」とかかれた石碑も
その一つだ。
まるで、町を救おうと命を落とした藤四郎が そこにいて、お地蔵さんに囲まれて 町を見守っているようだよ。                おしまい              
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