物語の基本としての昔話

ストーリーテリングの講座で、「物語の基本としての昔話」というようなタイトルのコマがあるのをここ数年よく見聞きします。児童図書館員養成講座のコマにもあるので、同じことが「右へ倣え!」のスタイルで繰り返されているのでしょうか。「愛されて語り継がれてきた」とか「長い間にみがかれた形式」とか、いろいろ説明がされるんだろうなあ、と推測しています。形式を覚えさせることに重点が置かれていて、「それを知らないと恥ずかしい」みたいな感覚になる。

 で、「物語の基本」だから、それがどうしたのだろう、というのが私の正直な思いです。 「昔話」に何かありがたみを持たせたいのかと、勘ぐったりしています。絵本でもありましたね、「長く読み継がれた」というのは一段高い位置をキープできる共通点です。

 でも、世の中を見渡すと、「昔話」を「民話」と同じ意味に使っておられる方も多いのです。「学校で昔話を語ってほしい」などという依頼があったとしても、依頼元は昔話を大きく捉えて「伝説を含めた民話」のつもりでおっしゃっていることも結構あります。紙芝居の紙ケースに「民話紙芝居」と書かれているのもあるし「日本の昔ばなし」と銘打っているのもありますから、会員の皆さんは詳しく分けて考えているわけではないと思います。そこにそのおはなしがあるから、おもしろいと思って語っているだけ。私はそれで充分だと思っています。
 民話として同じ高さにあるという目線は、人と人をフラットに捉える目線と同じなので、ボランティア教育としては「同じ高さにする」ということのほうが大切だと思っています。

 昔ばなし大学では「昔ばなしが広がりすぎたからつまらないものは排除する」という思考を受講生に与えました。私は受講しませんでしたが、当時のHPにはそのように巻頭言のように書かれていたのを見ましたし、話としても聞きました。もちろん周囲からもひしひしと感じたのです。結果として、印刷されたものだけを信用してそれをきちっと暗誦し、自分で語り口を考えるなどというのは批判の対象になりました。これが今の図書館のストーリーテリングにつながっていると思っています。
 
 今、「違うということを認めよう」という人たちはたくさんいます。口承文芸ということについて、歴史を振り返って考える人も増えてきていると思っています。昔ばなしの形式にこだわるあまりに、話のランク付けをしたり、表現の自由を極端に制限したりすることは、人権を侵すものではないかと考えています。

 

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