図書館・語り・紙芝居・集団相手の絵本よみ・ボランティアなどについて書きます。
絵解きボランティア
民俗学
1月19日朝日新聞be 「やって未体験」に紙芝居が紹介されました。紙芝居講座などで説明されるやり方と全然違うと、面食らう方も多いと思います。
歴史という目線で把握していくと、どういうことか分かりやすいので書きます。
また、絵本の読み聞かせで、大きく拡大したり歌ったりすることに、眉をひそめる方々が多いのは知っていました。自分たちもかつてやってきた時期があったし、そこからいろいろ学んだこともある。
ひそめた眉をちょっとゆるめて、「どうしてそういうことをしたいのか」と相手の気持ちになって考えると、わかることもあります。
今、演じ方で対立しているように思えることは、文献本位型と、現実重視型、それぞれにあてはまるような気がします。今に始まったわけでなく、ずーっと昔から対立軸として、他のいろんな分野についてもあったと思います。だから、両方存在理由がしっかりとある。文献型は現実型を批判することが多いけど、現実重視型はのらりくらりとやっている。
A:きちんとプログラムを作って整然と読み聞かせする形。複数の文献から理論だて、現実を自分に合わせさせようとする指導者はこのタイプ。本も評価が確定している物や自分の著作を使う。文献を暗誦するようなストーリーテリングや口演童話。印刷紙芝居の基本的な演じ方。
B:遊びや作ることに絵本を利用する形。ごく普通に、家庭や少人数で試しがてら読みあうのも、これ。中井理恵さんが歌ったりしているようなものも含まれる。本は内容を差別することはない。民話も、自分の言葉でアドリブを入れながら語っていくやり方。街頭紙芝居のおじさんたちのやり方(beに書いてあるやり方)。そのとき限定の言葉なので記録しても無意味だ。
今までは官からの指導でやっていく、文献タイプが主だった。でも、今、巷間で言われている「消費者目線」「市民活動」は現実タイプですよね。
昔ばなし大学では、「今の状態があまりに『ひどい』ので、正しい形を普及させる」などと説明があったそうです。「昔話が衰退したのは、『ひどい』話が流行ったせいだ。正しい語る価値のある話を語るようにする」という理念の下で、研修があるのですね。そういう崇高な理念だから庶民は理解できないだろうけど、地方にいくと3万~6万とすごく幅がある。
(今までコマ数のカウント計算をまちがっていました。失礼しました。おわびします。でも、幅がありすぎるし、付帯して一日1万円の講演もあった。参加者名簿が配られたりしていて、とても疑問に思います)
地方の人間に教えるのは手間がかかるのかなー。崇高な理念だから、細かいことは言わなのがエチケットなのかな・・。収支内容を受講生に報告するのがエチケットだと思うけど。
私は、『ひどい』から衰退したのでなく、民俗を無視して文献で進んできたから衰退したと思うタチです。中央集権型で中央が指図しなくちゃならないから、お金もかかるしCO2もでる。昔話や民話って、もともと民俗だったのにね。地域の話が人気があり皆が聞きたがる。
だから、『日本の昔話』は語法を学ぶのに必要だけど、知らない遠い地域で採話されたものは、いくらその土地言葉に変換しても、語る側の自己満足に終わらないかな。受け手目線で考えた方がいいと思います。大先生を満足させるために語っているんじゃないよね。
Bに問題点があるとすれば、大衆化で無法地帯になりやすいこと。「面倒なことは考えず気楽にやりましょうね」のはき違え型。これを上手く乗り切ればいいのですね。Aが存在することで、バランスがとれるという面が大きい。
さて、絵本の集団相手のやり方についての情報です。柏崎の絵本館サバトで、こんな方法でやられたそうです。「絵本をたくさん床に並べておき、子どもに自分が興味のある本のところに行ってもらう。それぞれを読み聞かせる。」
これを12月10日にブログで紹介してくれた「ふくちゃん」は、新潟県内あちこちで絵本ライブをしておられるようですが、「本を30冊もっていってその場で選ぶ」イベントをこの前、日報夕刊でPRされていました。これらは、Bタイプだと思います。私の「いっしょによもうよとしょかんのほん」もそうですが、今は、それぞれが真面目に考えながらやっているので、はき違えてはいないと思います。
歴史という目線で把握していくと、どういうことか分かりやすいので書きます。
また、絵本の読み聞かせで、大きく拡大したり歌ったりすることに、眉をひそめる方々が多いのは知っていました。自分たちもかつてやってきた時期があったし、そこからいろいろ学んだこともある。
ひそめた眉をちょっとゆるめて、「どうしてそういうことをしたいのか」と相手の気持ちになって考えると、わかることもあります。
今、演じ方で対立しているように思えることは、文献本位型と、現実重視型、それぞれにあてはまるような気がします。今に始まったわけでなく、ずーっと昔から対立軸として、他のいろんな分野についてもあったと思います。だから、両方存在理由がしっかりとある。文献型は現実型を批判することが多いけど、現実重視型はのらりくらりとやっている。
A:きちんとプログラムを作って整然と読み聞かせする形。複数の文献から理論だて、現実を自分に合わせさせようとする指導者はこのタイプ。本も評価が確定している物や自分の著作を使う。文献を暗誦するようなストーリーテリングや口演童話。印刷紙芝居の基本的な演じ方。
B:遊びや作ることに絵本を利用する形。ごく普通に、家庭や少人数で試しがてら読みあうのも、これ。中井理恵さんが歌ったりしているようなものも含まれる。本は内容を差別することはない。民話も、自分の言葉でアドリブを入れながら語っていくやり方。街頭紙芝居のおじさんたちのやり方(beに書いてあるやり方)。そのとき限定の言葉なので記録しても無意味だ。
今までは官からの指導でやっていく、文献タイプが主だった。でも、今、巷間で言われている「消費者目線」「市民活動」は現実タイプですよね。
昔ばなし大学では、「今の状態があまりに『ひどい』ので、正しい形を普及させる」などと説明があったそうです。「昔話が衰退したのは、『ひどい』話が流行ったせいだ。正しい語る価値のある話を語るようにする」という理念の下で、研修があるのですね。そういう崇高な理念だから庶民は理解できないだろうけど、地方にいくと3万~6万とすごく幅がある。
(今までコマ数のカウント計算をまちがっていました。失礼しました。おわびします。でも、幅がありすぎるし、付帯して一日1万円の講演もあった。参加者名簿が配られたりしていて、とても疑問に思います)
地方の人間に教えるのは手間がかかるのかなー。崇高な理念だから、細かいことは言わなのがエチケットなのかな・・。収支内容を受講生に報告するのがエチケットだと思うけど。
私は、『ひどい』から衰退したのでなく、民俗を無視して文献で進んできたから衰退したと思うタチです。中央集権型で中央が指図しなくちゃならないから、お金もかかるしCO2もでる。昔話や民話って、もともと民俗だったのにね。地域の話が人気があり皆が聞きたがる。
だから、『日本の昔話』は語法を学ぶのに必要だけど、知らない遠い地域で採話されたものは、いくらその土地言葉に変換しても、語る側の自己満足に終わらないかな。受け手目線で考えた方がいいと思います。大先生を満足させるために語っているんじゃないよね。
Bに問題点があるとすれば、大衆化で無法地帯になりやすいこと。「面倒なことは考えず気楽にやりましょうね」のはき違え型。これを上手く乗り切ればいいのですね。Aが存在することで、バランスがとれるという面が大きい。
さて、絵本の集団相手のやり方についての情報です。柏崎の絵本館サバトで、こんな方法でやられたそうです。「絵本をたくさん床に並べておき、子どもに自分が興味のある本のところに行ってもらう。それぞれを読み聞かせる。」
これを12月10日にブログで紹介してくれた「ふくちゃん」は、新潟県内あちこちで絵本ライブをしておられるようですが、「本を30冊もっていってその場で選ぶ」イベントをこの前、日報夕刊でPRされていました。これらは、Bタイプだと思います。私の「いっしょによもうよとしょかんのほん」もそうですが、今は、それぞれが真面目に考えながらやっているので、はき違えてはいないと思います。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« ブログアドバンス | 『新・紙芝居... » |
コメント |
コメントはありません。 |
![]() |
コメントを投稿する |
![]() |
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません |