アドバイザーは自分で調べて考えて

おはなしアドバイザーとかリーダーとか、それらの方々へ。

いろいろと研修を受けられたことと思います。
 どうも、自分でかつて受けた研修と違うことを言われると、とても不愉快だったり不安になったりする方が多いそうです。でも、大切な、今を生きる子どものため、多様な意見を研究して、自分で考えていかれる方々だと思いますので、まあ、間違っているかも知れませんが、私の考えを書きます。


★まず、紙芝居の説明について、私の思うことを書きます。
 紙芝居研究機関はたくさんあり、それぞれいろいろな意見が出版されています。もちろん、アドバイザー講習が行われる前からであり『この本読んで!』が創刊される前からです。
ところが、JPICではそのうちの一つの理論しか採用していない。どなたも図書館の貸し出しカードなどはお持ちでしょうから、ご自分で検索して、調べてみたらどうでしょうか。私は、どうして皆様がそうされないのか、不思議でなりません。
 お勧め紙芝居が、ほとんど一社に集約されているということに、皆様は知識がおありなのですから、気づいておられることかと思います。また、「光」という何ワットか分からない抽象的なものさしで良し悪しを区別されることに、不思議さはないのでしょうか。
 全国何百か何千か、紙芝居を図書館から借りているボランティアさんはJPICの紙芝居の説明を読んで、まあ、口には出しませんが「???」と思っていることでしょう。

★それから、昔話理論です。
これも同じように、学者がたくさん論文を発表しています。いろんな立場からアプローチがあることは、お分かりでしょう。小澤俊夫氏は、マックス・リュティの理論を翻訳した著名な学者ですが、それはつまり、欧米の理論が輸入されたもので、ヨーロッパの昔話理論ですよね。
で、日本の理論はどうなのでしょう。民の話は、やはりその風土や地形と分かちがたいものではないでしょうか。
 陸続きでいつ攻め込まれてもおかしくないヨーロッパ大陸では、「敵は徹底的にこらしめて排除する」みたいな気風があってもおかしくない。海に囲まれて比較的のんびりしている日本は、あいまいに終わらせる形式が生まれてもおかしくないと思うのです。他の学者先生方は、とっくに気づいているけど、やっぱり小澤理論を批判しても仕方ないし、対等に並べておくのだと思います。
 ところが、私たちのような末端には、小澤理論に沿わない本を提案したり、?マークをつけると「困った人」と言われるのです。これには大変迷惑しています。
 昔ばなし大学に行った人たちは、他の著名な研究者や再話者の名前を挙げて「あの人のは創作なんだって、あんまりよくないみたいだよ」と結構言っていました。
 今は小澤氏自身が「昔話は進化の最中」というような事をおっしゃっているんです。だから、もう、「正しい昔話」などと目くじらたてる必要はないし、もともと昔話は創作の積み重ねですから、排除などできるはずはないのです。あるものを受け入れるということ。肝心の家元と、雑誌に寄稿する指導者?が、えらくズレてるよね。 だから、めいめいが他の参考図書を読めばいいんだと思います。

 それに、昔ばなし大学です。(ご本人には申し訳ありません。事実を表に出して、これからの方の判断材料にしていただきましょう)
家族が何人もインフルエンザで寝込んでいるのに、講習日だからと講習に出かけて行く人もいたのです。一回当たりが高価ですからね、私が同じ立場だったらそうしたかも知れません。良妻になれと言っているのではないですが、やはり生活の中のお話ではないでしょうか。一コマ一万円という不思議な設定、都合の悪い人はビデオを見るだけでいい、とかね。それならば、返金するべきでしょうね。
小澤氏の母親の著書まで読めと言われたりして、大変だったでしょう。
 それから『昔話の語法』の本ですが、新潟では、事前に読んで参加することになっていたでしょう?私、他の県の昔ばなし大学のカリキュラム見たんだけれど、某県では、講座を全て受けて、最後にその本を買うことになっていました。じゃあ、新潟で完全に読んでから受けた人は、受講する必要がなかったのか、ってことになりませんか?私は、その本を自分で読みました。こういう考えもあるのねと、参考にするときもあります。それで充分だと思っています。

 『子どもと昔話』を読むと、自分の理論にかなったところを注釈して、これが語法にかなったところだ、と書かれているコーナーがあります。でも、研究というのは、推論にあてはまらないものも視野に入れて研究して、その後の様子を観察しながら時代と共に移って行くんじゃないかと思うんです。自分で選んだ話の中から自分で導いた理論に当てはまるところを見つけるなら、誰にでも出来ると思いませんか?

 理論って、人間が生きて作ってきた文化という足跡にあれこれ注釈するみたいなもんではないでしょうか。ところが今は足跡が先にあって、これから行く人をその足跡に無理に合わせさせようとしている。
 過去に大勢の人を楽しませたストーリーさえ、合わないのは間違ったものだという考え方になっています。人間が自由に変化させたり考えたり心のままに楽しむことを否定していることになる。

★ だから、アドバイザーさんへ。
「JPICの研修を受けた」というのは「それしか受けていない」ということで、逆に恥ずかしいことだと思ったほうがいいです。多様な現場の経験もなく、他の人にアドバイスすることは、自分自身を振り返って、どうなんでしょう。ほんとに、お願いですから、他の文献も読んで他の人と一緒に現場に出てみてね。県立図書館は、児童サービスをやっていなかったから、浦島状態ではないかと思います。現実のボランティアから学ばなくてはならないのは、指導者の方でしょう。
行政自らが人間を序列化している。厳しく批判したいと思います。

★ 家庭文庫も、限定された子供の集まりです。本もオーナーの趣味で集められています。実際、どれだけの利用者があるのか現実はどうなのか情報公開されていない。その系列でボランティアを育成しようとするのは、どれだけ危険なことか、企画者は考えたことがあるのでしょうか。
  

★ 絵本の集団相手の読み聞かせもそうです。
集団相手と、家庭などでの個人が個人に読んで聞かせることが、どうもごっちゃになっていませんか?
集団相手にやるおはなし会は、「イベント」です。そして、個人で家庭でやる読み聞かせも含めて「ファッション」になってもなんにもおかしくないと思うのです。
そうやって、普通の人に根を下ろしていくのではないでしょうか。子どもは大もうけ。どの親も、せっせと子どもに読んで聞かせる。
 皆さんにとって自分のやることは「高尚で素晴らしいことで、世俗的なものでない」と思いたい気持ちはわかりますが、それでは高みにいるだけで、自分だけが偉くなってしまいます。

子どもは「自分に興味を持って時間を割いてくれる人」が好きなのだと思います。だから本も、個別であればなんでもいいし、別に読み聞かせでなくても他の事でもよいのです。『バカにならない読書術』養老孟司・池田清彦・吉岡忍(朝日新聞社)の受け売りですが。
 五感を使って入力する。違いを感じて演算する。そして出力する。これらが脳の発達に必要な働きですから、きちんと黙って聞けというのは、出力を抑えていることになると思うのです。子どもの「聴く力」を育てたいのなら、まず体を使うことで鍛えた方がいいと思います。

★ よく、上からいくのでなく、下の組織から、っていうでしょ。ほれ、新潟市でも「水と土の芸術祭」だったっけ、市長肝いりの事業のPRのために、ワークショップがあったそうだけど、盛り上がらない。上からの指示で下の人がなにか一生懸命やる事業ってのは、トップダウン式で現実とずれていくことが多いのです。
 
★ 戦前戦中は「お国のために」と、隣組とか、戦意高揚童話や紙芝居が盛んだったでしょう。それもみんな上からのお達しです。それをイメージする人は、少ないのでしょうか。
 だから現場が第一。現場から上がってきたものはそれなりに価値があると思っている。絵本の読み聞かせも、上の指示で真面目にやるのよりも、勝手連的にやるもののほうが、市民に受け入れられるのです。


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