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二通りの歴史

歴史の見方には二通りあると、歴史の授業時間に習ったような気がします。

一つをAとすると、支配者側からの歴史。例えば何年何々の変、何年に何々が征夷大将軍になり、何々の政策を打ち出して、世の中がどうなったか、というようなこと。政治を行う側から見て大きなできごとをつなぎ合わせて捉えたもの。一般的に歴史の授業で教わるものです。

 もう一つをBとします。それは、被支配者側、庶民の側からの歴史。文化と深くつながり、世の中がどうなったから人々はどう暮らした、とか、どのようなものを生み出していったか、などというもので、私の想像ですが「歴史民俗学」とか、そういう名前で研究されているように思います。また、どの学問でも、かつて人々はどうしてきたかという伏線は大切で、必ず押えるのではないでしょうか。歴史は民衆が作るものだという考えに立っていますね。

私のイメージですいませんが、線路の枕木がAで、膨大な敷石がBのように思います。「時」は電車です。敷石が寄り集まって方向を決め、一定のところで区切りとして枕木が置かれ、時がその上を過ぎていきます。

 いつもこだわるみたいですみません。読み継がれた本を薦めましょうをいう図書館のやり方に、この視点から意見を言います。
 たとえばここに20年以上読み継がれた絵本があったとしましょう。これはBの力の作用で起こったことです。敷石のような名もない大勢の市民が自分のお金で買っていったその結果ですね。もちろんそれは、増刷回数など統計的に知ることができます。敷石が少なくなっていけば(民衆の支持が減っていけば)、枕木は乗せられることなく、その絵本はお終いになります。
  ところが今は、枕木が特定の意思を持って、敷石に「ここに集まれ」と命じ、「読み継がれた本」として継続させようとしているようなことになっていないでしょうか。
 
 昔話理論もそうです。庶民が語ることを楽しみに敷石のように寄り集まって話を楽しんできました。一定のところで昔話の本として出版されたり、理論として本になったりします。長い語りの歴史はそうやって敷石が優先でその上に枕木が乗り交互に働きながら進んできたと思っています。
 ところが、現在は、図書館という行政が「良いテキストを選んでそれを覚えて」とやったために、大勢の敷石が前方向に新しく寄り集まることができず、いつまでも特定の枕木の下に集められています。一つの理論も、次の瞬間には新しい工夫がされていくはずなのに、特定の理論の枕木が正しいからとそこの下から動くことができずにいます。「人々が守り抜いてきた型」と図書館の講師は説明されるのですが、人々は、型を守るために語ってきたのではありません。口承でやるために、自然淘汰の結果、似た型ややり方が残ったのではないでしょうか。しかし、時代が変わり人々の感覚が変わるときに、人々が敷石として違う方向に寄り集まったら、自然と枕木は新しくしてその上に乗せて、前に進めなくてはなりません。
 
 わらべ歌もそうです。敷石になるのは一生懸命所作を習得したおば様ではなく、現役の子どもであるはず。敷石がくったくなく無意味に寄り集まれる環境をつくるのが、ボランティアや行政の仕事ではないでしょうか。広く捉えれば、ボランティアが率先して幼稚で無意味なことをやると、子どもも安心するようになるから、ボランティアは子どもの高さになれればそれでいいかなあ、とも思っています。「ステップアップ」に図書館がこだわっている限り、ボランティアは子どもの高さになれないんだよ。新潟市の図書館には、誰か、そういうこだわりのある人がいて、膨大な税金を無駄に使ってきたんだと思います。刷り込みってこわいよね。
 

  

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