作法の習得が目的化

 おはなし会のプログラムを作るのも、本を選ぶのも、それらはある種の方法論でしかないと思っています。同じようなことが、数日前の朝日のbe、茶道の家元の話にも書いてありました。「お茶を楽しむルールに過ぎない『作法の習得』が目的化し、魅力が失せた」、そうです。
 茶道はそれなりの文化で、お稽古事として有名ですが、それさえ本末転倒の問題が起こっているのですね。絵本や紙芝居の読み聞かせはなおのこと、あくせく講習を受けるのは作法にこだわることでしかないと、一人でも多くの方が気付いてくれるように、また、閉鎖空間のせいでそんなことを口に出していえない人も多いのではないかと、せっせと書いています。

 特に図書館の指導者がひどいですね。全国行脚して「読み方選び方」を説く人、それをわざわざ予算をつけて呼ぶ担当者。自分の読み込み方を「正しい解釈」として延々と時間を費やして説明する指導者も多いです。他の人は自分とは違う見方をするだけなのに、自分と同じでないと楽しめないのでしょう。
「そんな本じゃ楽しめないの」
「そんな読み方じゃ楽しめないの」
「そんなプログラムじゃ楽しめないの」
「途中で人の出入りがあると楽しめないの」
と、自分だけが一段高くなっていきます。 きっとまた誰かの言葉の暗誦かな?
私は、そんな方々に言いたいのです。いろいろ条件をつけないと楽しめないのなら、本も紙芝居も特定の条件下でしか楽しめないようになるよね。「魅力が失せる」原因ではないですか?

上の発言の見方を変えてみましょう。
「そんな本じゃ楽しめないの」 → 「いろんな本を見る事ができて、心の垣根が壊せた」
「そんな読み方じゃ楽しめないの」 → 「想像力を働かせ、ついていくことがおもしろい」
「そんなプログラムじゃ楽しめないの」 → 「常識と違う並べ方で、私の思考の幅が広がった」
「途中で人の出入りがあると楽しめないの」 → 「静かに入ってくれてありがとう。アクシデントに対応できる機転が利いて、気持ちの穏やかな語り手になることが目標です」
・・・・と、こんなことでどうでしょう。優等生にはできないことを、庶民は受け入れることができる。「みんなの図書館」というのなら、視野をぐっと広げる必要があると思っています。

 もともとは、初めてでよく分からない人のために、「こんなやり方もあるんですよ」といくつかの方法や本を提示するのが図書館員の仕事だったと思うのですが、ある種の作法に集約させ、その作法が身についたのをステップアップと呼んでいました。あまりにやり方が拡散することを恐れたのでしょうが、明らかに人権侵害である、本の楽しみ方を限定しようとすることに、何も心に引っかかることはなかったのでしょうか。

  つまるところ、もしかしたら、みんな、寄り集まってなんでもいいからおしゃべりをしたかったんじゃないかなあ、と思っています。本を探すことなく、講演会に来た先生の言葉をうのみにして、別の人におしゃべりで伝えていく。それ位、みんなおしゃべりしたいんだよね。
 何かもっともらしいネタが必要だから「絵本の読み聞かせボランティア」というツールを使うだけのこと。ほら、ネタは「本のこと」「読み聞かせの各種作法のこと」「講師の先生のこと」「子どもがどんな様子だったかということ」「どれくらい一生懸命やっているかということ」・・・・とても生き生きしている。グループの中に有名な先生がいれば、自分もそこに寄りかかることができるし。

 

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