関東電友会関東支社支部

関東電友会関東支社支部は名称が変わりました。
新しい名称は「関東中支部」です。

電気通信視察団の数奇な経験談 その5 イスラエル編

2014-04-03 13:29:41 | 投稿
電気通信視察団の数奇な経験談 その5 イスラエル編
関東電友会名誉顧問 桑原 守二

 平成12年6月11日、アサド大統領死去の大事件から一夜明け、ただならぬ雰囲気のシリア首都ダマスカスを無事に出発できた60名近い大人数の視察団はバス2台に分乗してヨルダンの首都アンマンに向け旅を続けた。アンマンのホテルで昼食後はヨルダンのバスに乗り換える。イスラエルの国境を通過するには、同国との関係が良好とは言えないシリア国のバスでは印象が悪いとの配慮による。

 途中、海抜ゼロメートルの地点を通過した。記念の碑(写真)が建てられている。その後もバスはどんどん坂を下って行く。最低地点は碑よりも15km先の死海で、海抜マイナス390mである。空気のあるところでは、世界でもっとも低い地域だという。


海抜0メートルの標識碑

 それにしても、イスラエルの入国審査は厳重であった。全員バスから降ろされ、徒歩で審査を受ける。お茶の水筒を持っていた団員が中身は何かと尋問され、日本のお茶だと答えても納得してもらえず、結局は水筒をカラにさせられた。磁石が付いた碁石の説明も難しかった。日本でポピュラーなゲームの道具だと言い張り、何とか携行を許された。

 死海の浜辺に到着する少し前、バスからマサダの岩山が見える。西暦70年、ローマ軍に追い詰められた最後のユダヤ人が籠城した場所である。彼らは暑さと渇きのなかでなお民族の誇りを捨てず、最後は700人余が自決して玉砕したという。
 またクムランの遺跡も眺めることができた。1947年、近くを歩いていたベドウィンの少年が洞窟内で「死海写本」を発見した場所である。この写本は、それまで最も古いとされていた写本より1000年も前、紀元前2世紀のものと言われている。

 やがて死海のエン・ゲディ・ビーチに着く。ホテルで海水浴の支度をして海に向かう。死海は流入する川があるだけで出て行く川はなく、周辺から注ぎ込まれた水はすべて蒸発してしまう。そのため塩分濃度が高まり、死海の水は飽和量に近い塩分を溶融している。比重が約1.2もあり、1.0に近い人間の比重よりはるかに高いので、身体が全然沈まない。海面に寝そべって雑誌など読んでいられる(写真)。


死海で浮遊体験をする

 1000㏄の水に塩は360gしか溶解しない。水分が蒸発してそれ以上の溶融率になると、塩分は析出されてしまう。死海の沿岸はこの析出された塩の結晶で覆われ、裸足で上に乗ると痛いので、草履を履いて水のあるところまで歩かねばならない。近年、水が少なくなりすぎたというので、紅海から運河を作って海水を運ぶプトジェクトが発足したとニュースで報じられた。

 死海の泥はミネラルを豊富に含み、洗顔パックをすると女性の肌に良いと宣伝されている。不幸にして団員は男ばかりで、パックをしている団員は見かけなかったが、売店で売っている化粧品を細君用に購入している姿が見られた。私も土産に何点か買って持ち帰ったが、結局妻も娘も使わず仕舞いであった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

電気通信視察団の数奇な経験談 その4 シリア編

2014-02-05 17:15:48 | 投稿
電気通信視察団の数奇な経験談 その4 シリア編
関東電友会名誉顧問 桑原 守二

 電気通信視察団が平成11年に黒海の北部、クリミア半島の港町ヤルタを訪れたとき、山岸副団長が「この対岸はトルコですね」と言ったことから、12年の訪問国はトルコから始まることが決まった。視察団はさらにトルコの後、シリア、イスラエルなど、なかなか訪問し難い国々を回ることになったが、ここではシリアに重点を置いて述べてみたい。
 シリアの首都ダマスカスに着いた翌日、シリア・テレコム、シリア高等教育省、情報協会などを駆け足で訪問した後ホテルへ戻るバスの窓から、武装した兵隊がパラパラと道路に散開するのが見えた。何となく市街戦でも始まる雰囲気である。ときに平成12年6月10日のことであった。である。
 ホテルに戻るとアサド大統領が死去されたとのニュースが飛び込んだ。カンボジア訪問時は内紛が起こる一週間前であったが、シリアでは大変な出来事と正に遭遇した。大統領の後継問題でクーデタなどが起きるかもしれないのである。
 この日は視察団全員が大使公邸にご招待を頂いていた。こんな事態になっては如何かと思い大使に電話して伺うと、予定通り来なさいとのことあった。大使の声からは、動じている様子はほとんど感じられない。午後7時、視察団一行がバスで公邸に着くと、大使とともに大使夫人が正装して出迎え頂いた。ビュッヘスタイルの夕食の間、大使夫人はずっと世話をして下さり、大使も団員達と気さくに歓談を続けられた。外交官と直接話しをする機会など少ない団員には貴重な経験であったろう。
 そうした間にも、団長である筆者としては、もし戒厳令でも宣告されてイスラエルに向け出発できなくなったらと思うと、何となく気の晴れない夕べであった。後に聞いた話では、次男のバシャールが7月10日に信任を問う国民投票を実施し、7月17日に後継大統領に就任したという。ただし当時のバシャールの年齢は35歳で憲法に定める大統領資格条件を満足しておらず、急遽、憲法を改定しての就任であった。こうした強引さが今日の内紛の一因になっているのかもしれない。
 休日を利用してのパルミラ見学も忘れられぬ思い出である。世界遺産パルミラはダマスカスの北東230kmのところにあり、バスで行くしかない。砂漠の中の平坦で真っ直ぐな道をバスは邪魔するものもなく突っ走り、3時間足らずで着く。遺跡から1km程度しか離れてないホテルの窓からは、180度の角度に拡がった遺跡が眺められる。
 夜、ホテルのすぐ傍らに張られたテントの中で、羊の丸焼きを食べながらベドウィンの民族舞踊を楽しんだ。太鼓と笛の音楽に合わせてただ腰を振るだけの、あまり芸術的ではない踊りである。しかし日本を出てから初めてのアミューズメントに、若い団員は大いに盛り上がっていた。
 アルコールが入った宴の途中から、踊り子の腰紐に1ドル札が挟まった。席を回って行くうちに、札が2枚、3枚と増えていく。5枚も貯まると、1枚だけ見せ金を残して座長らしき男の前にあるザルに収め、また踊りながら回る。そのうちに、見せ金が5ドル札に変わった。
 ベドウィン劇団はパルミラの町から近いところに住居があって、団体客目当てに出稼ぎに来たらしかった。彼等にとって、この夜は年に何度もない稼ぎ時であっただろう。



大使夫人と歓談する桑原団長

腰ひもにドル紙幣を挟んで
踊るベドウィンの女性
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

電気通信視察団の数奇な経験談 その3 ウクライナ編

2014-01-09 17:48:08 | 投稿
電気通信視察団の数奇な経験談 その3 ウクライナ編

関東電友会名誉顧問 桑原 守二


 電気通信視察団は4年続けてアジア諸国を回った後、5年目の平成11年に訪問先として選んだのはロシア、ウクライナであった。エルミタージュ美術館で有名なロシアの旧首都サンクトペテルブルグから1時間半のフライトで、ウクライナの首都キエフに着く。穀倉地帯と言われるだけあって、飛行機から見ても畑が広がり、ところどころに林が散在する。キエフは市民一人あたり緑地が170平方メートルあり、ヨーロッパで一番緑が多い。京都市と姉妹都市で、公園には桜もある。
 宿泊先のホテルではガイドが団長から入れという。ロビーに美女が6人並び、先頭の女性がケーキを両手で差し出す。それを指でつまんで食べるのだが、作法が分からない。ついお焼香式になってしまった。ウクライナは美人の産地だと言われる。街中で会う女性も美人が多かった。サンクトペテルブルグとキエフのどちらに美人が多いか、団員の間で議論されたが結論は出ていない。


キエフのホテルの入り口でケーキの接待を受ける視察団の桑原団長

 本項で述べたいのはキエフよりも、「ヤルタ会談」で有名なヤルタである。ヤルタは黒海の北部、クリミア半島の南岸で、半島の中央部シンフェローポリ空港から85kmの距離。この間を世界最長だというトロリーバスが走っており、2時間40分かかる。ヤルタの人口は16万、黒海にのぞむリゾート都市で、一夏に最高100万人が訪れたこともある。
 宿泊したのはオレアンダという名前で、ヤルタでは高級の部類に入るホテルであるが、設備は良くない。大きな冷蔵庫が備え付けられているが、中は空。バスタブに入ってからシャンプーが置いてないのに気が付き、仕方なく固形石鹸で頭を洗った。
 ヤルタ会談が行われたのはリヴァディア宮殿である。1945年2月、ソ連のスターリン、米国のルーズベルト、英国のチャーチルがこの宮殿に会し、ドイツ占領後の分割統治について討議した。日本の北方領土問題については何ら公表されなかったという。
 見学した宮殿は、ニコライ2世の夏の別荘として1911年に建てられたもので、1階は会議当時の様子が再現されていた。2階は皇帝一家の展示で、家具や写真、皇女たちの自筆の絵などが並んでいた。


第二次大戦末期にヤルタ会談が行われたリヴァディア宮殿

 会談に際し、米国代表団はリヴァディア宮殿に泊まった。英国代表団が泊まったアルプカ宮殿は、市から16キロ離れた郊外にある。ソ連代表団が宿泊したのは、さらに遠い丘の上であるという。視察団はこのように説明を受けた。
 ところが昨年8月の文藝春秋誌に「ヤルタ会談の娘たち」という記事が載った。ルーズベルトの長女アンナ、チャーチルの次女サラ、駐ソ米大使ハリマンの次女キャサリンたちに取材した記録であり、驚くべき事実が明らかにされている。
 記事によると、会談があったとき、ルーズベルトは4期目の大統領選で体力を消耗し、ヤルタに辿りつくのがやっとの状態であった。ソ連はルーズベルトに会談を行う宮殿を宿舎として提供した。チャーチルは70歳の高齢の上、39度の高熱を出していた。ソ連代表団は米英の宿舎の中央に陣取り、両国が密に連絡するのを防いだ。
 樺太、千島列島をソ連に引き渡すという密約は、かかる状況の下で、ルーズベルトとスターリンの僅か30分の会談で決められた。それから現在の北方領土問題が始まっている。
 我々は何も知らぬまま、リヴァディア宮殿を見学してヤルタを離れたのだった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

電気通信視察団の数奇な経験談 その2 チベット編

2013-12-06 21:03:36 | 投稿
電気通信視察団の数奇な経験談 その2 チベット編

関東電友会名誉顧問 桑原 守二


 電気通信視察団がアジアで最後に訪問したのはネパールとチベットである。ネパール自身は訪問目的ではなく、チベットへ行くのにはネパールの首都カトマンズを経由するか、中国の成都から飛ぶしか方法がないためである。
 平成10年6月、視察団はタイのバンコックから2時間ほどのフライトでカトマンズに入った。ネパールという国は単独でも十分に面白かった。カトマンズという街の混雑、汚さ、路の狭さなど、3年前に訪れたインドに良く似ている。第一回から参加している団員の一人が「インドと同じ匂いがする」と言う。そう言われたら、ネパールのお札もインドのお札と同様に臭かった。インドがくしゃみをするとネパールは風邪を引くと言われる位にインド経済に依存している。そのくせインド嫌いである。日本との時差が3時間15分と半端なのも、時差3時間半のインドと一緒にしたくないのが理由だと聞かされた。
 市の郊外、バグマティ川(ガンジス川の支流)のほとりに火葬場がある。火葬場や沐浴ではインドのベナレスが有名だが、そこでは写真撮影を禁止していた。遠藤周作の「深い川」では観光客が制止を振り切ってカメラを向け、地元の人々に追いかけられる場面があった。ネパールの火葬場では特に撮影を禁止していない。しかし、遺骨を薪の燃え残りと一緒に川に突き落とす遺族の前で、カメラを向けるのは躊躇いがあった。
 カトマンズ空港をチベットに向け離陸した中国西南航空の飛行機は、東に進路をとり、ヒマラヤ山脈に並行して飛ぶ。何しろ8000メートル級の山々であり、十分に高度を上げてからでないと横切れない。
 やがて飛行機は大きく左に旋回した。機長が左にエベレストが見えるとアナウンスする。スチュワーデスが「あれがエレベストだ」と指を指す。しかし、他人が指さす方向と言うのは分かり難い。「これがそうだ」と信ずるしかなかった。
 機はもう一回、左に旋回した。ラサ空港である。ここは海抜3700メートル、富士山頂と同じ高さである。「動作は緩慢に、水分をたくさんとり、アルコールは控えること」の注意を守り、タラップを一歩一歩ゆっくりと降りた。空港でお弁当の昼食を取ったが、ここで食欲を失っている団員が何人も居た。
 街に向かうバスの中には、酸素を詰めた空気枕が用意してある。ゴムのチューブがついていて、それを鼻の穴に差し込んで吸う。さっそく吸っている団員がいる。後で聞くと、すでに高山病で気分が悪かったとのこと。幸い私は軽い頭痛だけで済んだ。
 バスでラサ市に入る数キロメートル手前から、遠くにポタラ宮が見えた。「チベットへ来るまで、こんな宮殿があるという事すら知りませんでした」と団員の一人が言う。崖に沿って高さ110メートル、横幅360メートルの大宮殿である。中は1000以上の部屋に仕切られているとのことだ。


ポタラ宮をバックに記念撮影。団員より宮殿の威容に注目すること

 宮殿の屋上からの眺めは絶景である。市街が一目に見渡せ、その先にラサ川が、さらにその先には山々が連なる。下の階にはダライ・ラマ5世の遺骨をミイラにして納めた巨大な霊搭があり、3700キログラムもの黄金や宝石で飾られている。
 ラサに着いて2日目の夜、チベットの歌を聞き、踊りを見ながら食事をしたが、その頃に団員の多くが最低の体調だったようだ。ビールが全く美味しくない。50名近く居る団員の健康を気遣って視察団を主催する新聞社の社長が医者を用意していたが、その社長自身が真っ先に医者のお世話になる破目となったのは傑作である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

電気通信視察団の数奇な経験談 その1 カンボジア編

2013-10-31 17:07:00 | 投稿
電気通信視察団の数奇な経験談 その1 カンボジア編

関東電友会名誉顧問 桑原 守二


 電経新聞社が企画し、筆者が団長を務めた電気通信視察団は、平成7年7月にインドを訪問したのを始めとして、最初の4年間は東南アジア14か国を歴訪、次いで平成11年にロシア、ウクライナ、平成12年にトルコ、シリア、イスラエル、平成13年にポルトガル、モロッコ、フランス、平成14年にブラジル、チリ、ペルーを訪問した。かくして本視察団はアジアから中東、欧州、アフリカ、南米と4大陸に足跡を残した。
 訪問した国の中には、単独で行くのはなかなか難しく、政情不安があったりもして、我々は秘境視察団と別名をつけられた。数週間あるいは数か月ずれていたら、危険な局面に遭遇したであろう国もある。60名近い団員を引き連れて、それぞれ10日近い旅行をし、1名の事故もなく視察を完了できたのは、今から思うと僥倖としか言いようがないように思う。今回、支社支部のホームページ担当からの依頼があったので、興味を持って頂けそうな事例のいくつかを紹介して参りたい。その始まりはカンボジアである。
 カンボジアは今日でこそ世界遺産アンコールワットを訪ねるツアーが旅行業者により企画され、多くの日本人旅行者で賑わっているが、視察団が訪れた平成9年当時はポル・ポトの惨禍から十分に回復したとはいえず、カンボジアはまだ遠い国であった。我々がカンボジアに到着した日の翌日、内藤駐カンボジア日本大使から
「フンシンペック党と人民党の2人の党首が互いにボディガードを増やしあい、それぞれ1500人ずつ居ます。何時、何が起こっても不思議ではありません」
との話があった。またお話の最中にも遠方からズーンと花火のような音が聞こえたが、
「あれは発見した地雷を処理しているのです」
と聞かされた。
 事実、我々がカンボジアを離れた翌週、プノンペンに2つしかないという四つ星ホテルの1つ、ソフィテル・カンボジアの近辺で両党の間で銃撃戦が起きたとのニュースがあり、宿泊していた外国人旅行者が避難するという事件が起きた。このホテルには視察団も宿泊したのである。また1か月後にはアンコール遺跡の近辺でポル・ポトの残党と政府軍との間で銃撃戦があり、観光に訪れていた旅行者が遺跡に近い都市、シェムレアプからヘリコプターで脱出するという事件も起きた。我々が運悪くこうした事件にぶつかっていたらと、後で冷やりとさせられたものである。

 最後に、当時のカンボジア電気通信事情に触れておきたい。

電柱が傾き、電線が垂れ下がったプノンペンの市内ケーブル

カンボジアの首都プノンペンは、フランスの保護領時代に広い道路が作られ、樹木も植えられて、小パリと称される瀟洒な街であった。しかしポル・ポト政権のもとで無人化が強行され、廃墟と化した。視察団が訪れたときは新生カンボジアの誕生とともに人口120万の都市として活気を取り戻しつつあったが、街中には破壊の傷跡が各所に残っており、乱雑に張られたケーブルや電線はとても生きているとは思えない状況であった。
電柱が傾いて垂れ下がったケーブルに視察団が乗った大型バスがひっかかり、身動きがとれなくなった。心得たもので、車掌役が窓からバスの屋根によじ登り、ケーブルを持ち上げている間にバスがそろりそろりと脱出する。「これらのケーブルを活用するのは諦め、新しく張り直すしかない」とは線路技術に詳しい団員の意見であった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする