9月26日(水)の夜に、自己実現を支援する「元気塾」という会で話をさせていただくことになった。これはとてもお世話になっている方の経営する英語学校の主催だけれど、誰でも無料で参加できる一般向けの会である。
依頼された内容は、カナダに来たきっかけや、レポーターの仕事のなかでの所感や、レイキを実践する意義といったこと。
どんな話をしようかとメモを書いていたら、自分が今まで考えたり、やってきたことが整理されてきた。自分のなかにあるものを発見するのは結構面白いことだ。
レイキを知ってからの10年は、目に見えない世界を確信するための旅だったように 思える。
両手を合わせたときの風船をつかんだようなエネルギーの感覚が、人の全身からも出ていることを実感したのは、レイキを始めて2ヶ月後、父が最後の入院となった病室でのこと。
父の体に向けて、遠くから手をかざして近づけていくと、本にある通り60センチ程度のところで、抵抗感を感じた。
妹にも試させたところ、同じところで手を止めた。「そう感じるねー」。やっぱりそうなのだ。
人間の体から発せられるオーラの感覚を知って、喜んでいた数日後、父の心臓の機能が弱まり、機械の助けを借りることになった。
そのときから意識は遠のき、呼びかけへの反応がなくなった。
無意識に、わたしは数日前にしたように、手を遠くから近づけて、父のオーラを確かめようとしていた。
しかし、手は何も感じないまま60センチを通り越してしまった。あのときあった抵抗感、磁石の同極を合わせたような感覚はどこにも感じられないのだ。
あのとき、すっと手が止まった、父の体にあったエネルギーはどこへ行ったのか?ざっと鳥肌が立った。
看病中はずっと、父が痛がっていた股関節にレイキをしていたが、
感覚の確認後、何か、何かしなくてはという気持ちで、レイキを伝授してくれた友人に電話をかけた。遠隔ヒーリングをお願いしたのだ。
彼女は快諾して、顔も知らない私の父に遠隔をしてくれることになった。
しかし、寿命のときは、それから11時間後にやってきた。
午前7時。初めて人の最後を看取った。
初めて出す葬式は、宗教を調べるところから始まった。母に負担をかけまいと、姉妹三人と姉の夫とで動き始めた。何もわからない私達がバタバタと通夜の準備を行って、ふと我に返ったら夕方の5時。
友人に遠隔ヒーリングをお願いしたままだったことに、そのとき気が付いた。慌てて電話で父の死を告げた。
彼女は「そんなことだと思っていた」という。
どういうことかと聞いたところ、
遠隔しようとしたら、父と祖父のビジョンが出てきたのだという。
そして二人は一緒に遠く(あちらの世界)へ行こうとするので、
彼女は「まだこちらでやることがあるよ」と告げたが、
そのとき父はこう言ったというのだ。
「もういいんだ」
このときまたざわっと鳥肌が立った。
「お父さんの言葉だ」と確信できた。
まず彼女の語る「もういいんだ」のイントネーション。これは徳島出身で青年期からは大阪で過ごした父の口調そっくりだった。
そしてそのセリフ。
心臓が悪いにもかかわらず、北海道の冬の寒い朝に釣りに出かけたり、タバコを隠れて吸っていたり。
家族みんなでそれをいさめると、「(自分の好きなことをやっていれば)いつ死んでもいいんだ」と言っていた。
でも祖父を尊敬していた父だから、祖父が1年前に他界するまでは
「おじいちゃんが生きているんだから、おじいちゃんより先に逝ったら行ったらだめでしょ」という言葉をいうと、静かになっていた。
だが、祖父の他界後は、父の好き勝手を止める言葉がないと母や姉とよく語り合っていたのだ。
97年、祖父の一周忌に「自分は長男だから」と家族の反対を押し切って、無理を承知で徳島に行って、案の定、倒れて徳島で入院。それから半年足らずで父も祖父と同じ場所に行ったのだ。
その父が祖父と一緒に。
あまりにもできすぎている。いや、そうであってまったく不思議でないことを、彼女の口から聞いて、何の疑問もなく、「そうだったんだ」と
納得できた。
父の気持ちは「もういいんだ」だったのだ。
このことを知らずにいたら、わたしのなかで「あのときこうしていたら」と後悔したかもしれない。でも、父の気持ちを知って、とても安心して見送ることができた。
家族にこの一連のことを伝えたところ、やはり納得した。
このとき目に見えない世界への扉は、わたしの目の前で大きく開かれた。そしてわたしはその世界の探求に夢中になっていったのだ。
依頼された内容は、カナダに来たきっかけや、レポーターの仕事のなかでの所感や、レイキを実践する意義といったこと。
どんな話をしようかとメモを書いていたら、自分が今まで考えたり、やってきたことが整理されてきた。自分のなかにあるものを発見するのは結構面白いことだ。
レイキを知ってからの10年は、目に見えない世界を確信するための旅だったように 思える。
両手を合わせたときの風船をつかんだようなエネルギーの感覚が、人の全身からも出ていることを実感したのは、レイキを始めて2ヶ月後、父が最後の入院となった病室でのこと。
父の体に向けて、遠くから手をかざして近づけていくと、本にある通り60センチ程度のところで、抵抗感を感じた。
妹にも試させたところ、同じところで手を止めた。「そう感じるねー」。やっぱりそうなのだ。
人間の体から発せられるオーラの感覚を知って、喜んでいた数日後、父の心臓の機能が弱まり、機械の助けを借りることになった。
そのときから意識は遠のき、呼びかけへの反応がなくなった。
無意識に、わたしは数日前にしたように、手を遠くから近づけて、父のオーラを確かめようとしていた。
しかし、手は何も感じないまま60センチを通り越してしまった。あのときあった抵抗感、磁石の同極を合わせたような感覚はどこにも感じられないのだ。
あのとき、すっと手が止まった、父の体にあったエネルギーはどこへ行ったのか?ざっと鳥肌が立った。
看病中はずっと、父が痛がっていた股関節にレイキをしていたが、
感覚の確認後、何か、何かしなくてはという気持ちで、レイキを伝授してくれた友人に電話をかけた。遠隔ヒーリングをお願いしたのだ。
彼女は快諾して、顔も知らない私の父に遠隔をしてくれることになった。
しかし、寿命のときは、それから11時間後にやってきた。
午前7時。初めて人の最後を看取った。
初めて出す葬式は、宗教を調べるところから始まった。母に負担をかけまいと、姉妹三人と姉の夫とで動き始めた。何もわからない私達がバタバタと通夜の準備を行って、ふと我に返ったら夕方の5時。
友人に遠隔ヒーリングをお願いしたままだったことに、そのとき気が付いた。慌てて電話で父の死を告げた。
彼女は「そんなことだと思っていた」という。
どういうことかと聞いたところ、
遠隔しようとしたら、父と祖父のビジョンが出てきたのだという。
そして二人は一緒に遠く(あちらの世界)へ行こうとするので、
彼女は「まだこちらでやることがあるよ」と告げたが、
そのとき父はこう言ったというのだ。
「もういいんだ」
このときまたざわっと鳥肌が立った。
「お父さんの言葉だ」と確信できた。
まず彼女の語る「もういいんだ」のイントネーション。これは徳島出身で青年期からは大阪で過ごした父の口調そっくりだった。
そしてそのセリフ。
心臓が悪いにもかかわらず、北海道の冬の寒い朝に釣りに出かけたり、タバコを隠れて吸っていたり。
家族みんなでそれをいさめると、「(自分の好きなことをやっていれば)いつ死んでもいいんだ」と言っていた。
でも祖父を尊敬していた父だから、祖父が1年前に他界するまでは
「おじいちゃんが生きているんだから、おじいちゃんより先に逝ったら行ったらだめでしょ」という言葉をいうと、静かになっていた。
だが、祖父の他界後は、父の好き勝手を止める言葉がないと母や姉とよく語り合っていたのだ。
97年、祖父の一周忌に「自分は長男だから」と家族の反対を押し切って、無理を承知で徳島に行って、案の定、倒れて徳島で入院。それから半年足らずで父も祖父と同じ場所に行ったのだ。
その父が祖父と一緒に。
あまりにもできすぎている。いや、そうであってまったく不思議でないことを、彼女の口から聞いて、何の疑問もなく、「そうだったんだ」と
納得できた。
父の気持ちは「もういいんだ」だったのだ。
このことを知らずにいたら、わたしのなかで「あのときこうしていたら」と後悔したかもしれない。でも、父の気持ちを知って、とても安心して見送ることができた。
家族にこの一連のことを伝えたところ、やはり納得した。
このとき目に見えない世界への扉は、わたしの目の前で大きく開かれた。そしてわたしはその世界の探求に夢中になっていったのだ。
大切なお話のシェアーを、ありがとう。
拝読させていただいて、かおりさんのお父様への底なしの愛を感じました。「好きにさせてあげる」のは一番の愛だと思います。
ワー違う感じがするんですね。確かに、対面では祖父の話まではしないからかな?
ナミンさん、
「信じざるをえないフシギな事」っていう表現、本当にぴったりです。
底なしの愛というよりは、実家から離れていて何もしていなかった親フコウな子どものツミホロボシという感じなんですよ。
わたしは父に顔も性格もそっくりで、家族から「かおりは父から生まれた」とよく言われていました。
わたしもそのときは「もういいんだ」と言いそうです。
人生には、まさにプライスレスで、でも価値の大きな出来事や宝物が用意されていますよね。
そんなかおりさんのブログを読んで、フジコヘミングさんの言葉を思い出しました。
「死ぬ人は,その人が死ななければ贈れない最善の贈り物を後の人に残していく.それを受け取った人は不思議な力を受け,新しい生涯が始まる.」