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初めてSRKWブッダのホームページを見る方などを想定し、ブログを初め、その全ては、令和2年1月2日から9日にかけて書いた5回分となります。(^^)
1回目
https://blog.goo.ne.jp/kassii/e/75047f9bda8af97e353ade6cdc27745b
その上で、それ以外のブログに興味をお持ちいただき御覧いただければ、幸いです。m(_ _)m
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今回は、ホームページの善知識を見てみたいと思います。
善知識はホームページトップの正法の一つ右のアイコンを押すと出てきます。
ここに、ホームページの内容をそのまま掲載します。
⭕ホームページの引用始まり⭕
【善知識】
この世には、世俗の中にありながら、ときとして<真理の言葉>を発する人が現れる。この<真理の言葉>は、それを聞いて、その意味するところを知る人が あるならば、かれをして不滅の安穏(=ニルヴァーナ)へといざない、導き、至らしめる働きを為す。世にも不思議な、稀有なる働きゆえに、この<真理の言葉>を<善知識>と名づけ、同時にその言葉を発したかれ自身も善知識と呼ぶのである。
善知識は、他の人に好まれる一言を与えようと思って計らう人ではない。なぜならば、善知識は、他の人に期せずして善なる道(=覚りの境地に通じる道)を 与えてしまう人のことであるからである。そして、この善知識が発する<真理の言葉>、すなわち<善知識>それ自体も決して特別な言葉では無く、ごく平易な言葉として語られるものであり、何気ない一言として発せられるのである。したがって、<善知識>は、たといそれがまさしく発せられて、誰かがそれをまさしく聞き及んだとしても、かれに直ちに感激を与えるような言葉では無い。しかしながら、<善知識>は、「それ(=真如,=覚りの境地,=覚者)」の実在をこころに知っている信仰篤き人々に、それがそうだと知られることになるのである。なぜならば、<善知識>は、かれらにこの世における最も美味なる味わいをもたらすからである。<善知識>は、それが発せられた局面に立ち会ったすべての人々を誰一人として悲しませることの無い言葉として特徴づけられ、誰ひとりとして後悔の念を生じることの無い完全な結末をもたらす。けだし、<善知識>こそ世における法(ダルマ)の現れに他ならないからである。
ところで、善知識は覚りの境地に至ることを目指す人が自分自身で見いださなくてはならない。他の誰かが、「あの人がそうですよ」と指し示してくれる訳で はないからである。しかしながら、もし人が、心構え正しく、よく気をつけて、善なるものの真実を知ろうと熱望するならば、かれはついにその人(=善知識) を見いだすであろう。
こころある人は、善知識はまさしくこのようにして見いだされるのであると領解せよ。
初めてSRKWブッダのホームページを見る方などを想定し、ブログを初め、その全ては、令和2年1月2日から9日にかけて書いた5回分となります。(^^)
1回目
https://blog.goo.ne.jp/kassii/e/75047f9bda8af97e353ade6cdc27745b
その上で、それ以外のブログに興味をお持ちいただき御覧いただければ、幸いです。m(_ _)m
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今回は、ホームページの善知識を見てみたいと思います。
善知識はホームページトップの正法の一つ右のアイコンを押すと出てきます。
ここに、ホームページの内容をそのまま掲載します。
⭕ホームページの引用始まり⭕
【善知識】
この世には、世俗の中にありながら、ときとして<真理の言葉>を発する人が現れる。この<真理の言葉>は、それを聞いて、その意味するところを知る人が あるならば、かれをして不滅の安穏(=ニルヴァーナ)へといざない、導き、至らしめる働きを為す。世にも不思議な、稀有なる働きゆえに、この<真理の言葉>を<善知識>と名づけ、同時にその言葉を発したかれ自身も善知識と呼ぶのである。
善知識は、他の人に好まれる一言を与えようと思って計らう人ではない。なぜならば、善知識は、他の人に期せずして善なる道(=覚りの境地に通じる道)を 与えてしまう人のことであるからである。そして、この善知識が発する<真理の言葉>、すなわち<善知識>それ自体も決して特別な言葉では無く、ごく平易な言葉として語られるものであり、何気ない一言として発せられるのである。したがって、<善知識>は、たといそれがまさしく発せられて、誰かがそれをまさしく聞き及んだとしても、かれに直ちに感激を与えるような言葉では無い。しかしながら、<善知識>は、「それ(=真如,=覚りの境地,=覚者)」の実在をこころに知っている信仰篤き人々に、それがそうだと知られることになるのである。なぜならば、<善知識>は、かれらにこの世における最も美味なる味わいをもたらすからである。<善知識>は、それが発せられた局面に立ち会ったすべての人々を誰一人として悲しませることの無い言葉として特徴づけられ、誰ひとりとして後悔の念を生じることの無い完全な結末をもたらす。けだし、<善知識>こそ世における法(ダルマ)の現れに他ならないからである。
ところで、善知識は覚りの境地に至ることを目指す人が自分自身で見いださなくてはならない。他の誰かが、「あの人がそうですよ」と指し示してくれる訳で はないからである。しかしながら、もし人が、心構え正しく、よく気をつけて、善なるものの真実を知ろうと熱望するならば、かれはついにその人(=善知識) を見いだすであろう。
こころある人は、善知識はまさしくこのようにして見いだされるのであると領解せよ。
⭕ホームページの引用終わり⭕
いかがでしたでしょうか?
やはり、正法と同じで「難しい」、「さっぱり分からない」という感想があってもいいのかなと思います。
私なりに要約すると、次のようになります。(しかし、要約は要約です。本来の書き手であるSRKWブッダの意図から、ずれる恐れがあることも含み置いた上で、お読みいただき、再度、元の記述を御覧いただきますようお願いいたします。)
【要約】
この世には、時として、<真理の言葉>(善知識という。)を発する人(やはり、善知識という。)が現れる。それを聞いて、意味するところを知る人はブッダとなる。
善知識は、それ自体特別な言葉では無く、ごく平易な言葉であり、何げない一言である。
善知識は発せられた局面に立ち会ったすべての人々を誰一人として悲しませることの無い言葉であり、法(ダルマ)の現れに他ならない。
かなりはしょりました。
かなりはしょりました。
この世には時として、善知識を発する人が現れる。というのは、人が突然、無から現出するという意味ではなく、
ダルマの現れである善知識を時として、口から言葉に出す人がいるという意味です。
さて、前回の正法についてのブログで、このように書きました。
→正法を正しく理解すると覚りの境地を体現(ブッダになる。)することとなると書いてあることが理解できます。
この正法と善知識はどういう関係なのでしょうか。
ツイッター(ツイログ)で、「正法」、「善知識」をキーワードにして検索すると次のようなツイートがありましたので、御参考ください。
【ツイッター】
法の句(善知識)の出現を聞いて、修行者は覚るのではない。法の句(善知識)が、まさに正法通りに世に出現する様を見て、正法への信が確立され、偉大な智慧の確かな存在を覚智したとき、覚りの機縁を生じる。
ところで、前回と今回、ホームページを見てみると、何て難しいのでしょうか、という感想があるかもしれません。
もしかして、
「仏道は難しいのか?」
「SRKWブッダがわざと難解にして、理解しないようにしているのでは?」
などなど
これから見ていくホームページの内容ですが、実際には、難しいものもあれば、平易なものもあります。
また、ツイッター(ツイログ)を見ると、かなり分かりやすい表現を採用していることが理解できると思います。(個々の単語は知らないものも出てくるかもしれませんが。)
【ツイッター(ツイログ)例】
このように、ツイッターとホームページで表現の仕方が異なっていること。また、一番最初のブログで紹介したように、ブッダとは「やさしさの究極を体現した人格完成者」とあるように、やさしいということなのであれば、
わざと理解しないようにしていることはないに違いありません。
ホームページは、覚りについての情報を体系的に構築するため、このような表現方法を取っているものと推定されます。
そのため、
ホームページの記述が難しいと感じても何ら問題なく、
分かる範囲で読み進めればいいと思います。
また、仏道が難解な文章を理解し、記憶する必要があるのかということについては、次のようなお話しがあります。
理法005-関連するもの
チューラ・パンタカ