仏道

SRKWブッダによる内容を主になぞるものとなります。

一休み(フルーツ)

2020-01-24 18:58:18 | 日記
南国フルーツ

今回は、SRKWブッダのホームページからではなく、別のお話しをします。

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例えばの話しとなります。

例えばフルーツの王様であるドリアンをめぐるお話し、

また、仮定の話しとして、ドリアンの産地を限定して南国の特定の一つの国だけにあり、行かないと食べられないとします。

このドリアンの特徴として、次のものをあげることができます。

○とても甘い
○トロっとしている
○とてもクサイ
○皮がトゲトゲしている
○フルーツの王様である
○濃厚である
○日本にはない
○その国に行かないとたべられない

などなど

また、ドリアンをめぐっては、様々な話しが付加的についてきます。

△トゲトゲの皮のむき方はこれがいいとか。

△トゲトゲでケガしたことがあると言う人もいるかもしれません。

△栄養学に詳しい人が、その成分を分析して説明するかもしれません。

△また、世界中を旅行している人が、他のフルーツと比較するかもしれませんし、タイでは、どのようにしてドリアンを手に入れるか説明するかもしれません。


人それぞれのそれまでのドリアンの経験によって、その表現方法が全く異なってきます。

たくさんの表現の中、もしも、その表現の全てを習得し、長期にわたり想像したとしたら、ドリアンを食べたことがない人自身に、その味わいや風味を再現することができるでしょうか?

私は、その味わいや風味は、全く再現することができないと思います。

一方、そのような表現を全く知らない人であったとしても、実際に食べればドリアンというものについて知ることができます

また、このドリアンをめぐっては、次のような状況が生まれることもありえます。

✕ドリアンを食べたことがある人の感想などを研究し、自分は食べたことがないものの、ドリアンに対する独自の解釈を発表する人もいるかもしれません。

✕私は特別なドリアンを食べたことがあり、このような私は特別であると主張するかもしれません。

✕ドリアンの特徴といくつか重複する特徴を持つ別のフルーツを食べた者が、私はドリアンを食べたと自称するかもしれません。

✕私についてくれば、ドリアンが食べられる。とりあえずその費用として○○円。

✕いろいろな経緯があり、ドリアンなどというフルーツはこの世に存在しないという人もいるかもしれません。

などなど


ここで例えば皆さんが、ドリアンを食べたことがあると仮定し、予備知識の全くない、もしくは、多少知識のある目の前の人に、

『ドリアンを、是非、食べてもらいたい』


と思ったら。どうされるでしょうか?

人によってやり方が異なることが想定されますが、次のような言葉などが発せられるかもしれません。

Aさん
「フルーツの王様、是非たべてみな!」

Bさん
「私は実に様々なフルーツを食して来た。フルーツ以外にも美食を極めてきた。このような私が、感服した最高の物がドリアンである。」

Cさん
「オラこんなうまい果物食べたこともなかったよ! ま〜うんめ〜から、たべてみ!」

Dさん
「とにかくクサイんだよ。これがフルーツの王様かってくらいに」

Eさん
「とにかくタイに行ってみたら、とっても美味しいフルーツに出会えるよ」

Fさん
「このような栄養構成のフルーツ、興味あるでしょ」


などなど

そのすすめ方は、結局のところ、そのすすめた人のそれまでの、経験を踏まえたものにならざるを得ません。

例えば、文学表現に優れた人であれば、華麗な文章によるでしょうし、旅行者であれば旅行記の中にでてくる…。などなど。

ドリアンを食べたことがない人が、よく文学を理解し、華麗な文章を書く人でも、ドリアンの文学的表現を見て何も感じないかもしれません。

逆に、Cさんのような素朴な感想に興味を持つかもしれませんし、また、Dさんのドリアンがクサイというところに、興味を持つかもしれません。

一体どのような言葉によって、目の前の人がドリアンを食べようと思い、実際に食べることになるかは、想像できませんが、一方、食べてほしいと思った人は、その人の全力でそのことについて表現することとなると思います。

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以上でフルーツのお話しはおしまいです。

ここで、ドリアンを例えにしましたが、他のフルーツでもお話しは同じです。

また、このフルーツについて、若干の違いはあるものの、ブッダの説くものと対比して考えることができると私は考えています。

🔶フルーツを食べなければ、分からない。→ 解脱しなければ分からない

🔶フルーツを食べれば分かる → 解脱すれば分かる

【ツイッター】
解脱は、自分自身の身に体現されること(現象)である。したがって、それが起きた時にははっきりと覚知される。修行者は、その訪れを静かに待てばよい。因縁によってすべてが起こる。じたばたする必要は無い。

🔶フルーツをすすめようとして、人それぞれ表現のしかたが異なる。 → 仏によって、その表現が異なる。(法華経の文学的表現。金剛経の短い中に凝縮した表現。六祖壇教、原始経典などなど、全て趣きが異なる。)

🔶どういう話しによって、そのフルーツを食べることになるのか。→ どの経典によって最終的に解脱するのか。

🔶例え表面上、そのような表現を仮に取ってなかったとしても、本当にフルーツを食べてもらいたいと思っている人は、表現如何にかかわらず、食べてもらいたいとの主旨が、首尾一貫する。 → 例え表面上、そのような表現を仮に取ってなかったとしても、本当に衆生が解脱することについて説く仏であれば、そのことについて首尾一貫する。

🔶フルーツを食べてもらうため、その人の全力を表現に投入する。 → 解脱のために必要な表現を全力で投入する。(巧みであるか、稚拙であるか問わず。)



ところで、トロピカルフルーツは南国にありますが、仏は、南国のように飛行機に乗る所や西方にあるのでなく、自分の中にあるようです。

【六祖壇教】
一念の心が平直なままであること、それが衆生が仏となることである。わが心中にちゃんと仏はいるのだ。