昨日からちょっと落ち込んでおります。この気分、言ってみれば英語のupsetが一番しっくりくる感じの、怒りの混じった混乱というか、動転というか、何ともモヤモヤな気分。
発端は、毎日見に行く、お気に入りブログリジィ子のCA在住お気楽エッセイの記事の中、リジィ子さんが意図したはずのその日の記事の本題が印象もろともすべてぶっとんでしまうくらいのビックリが私を直撃。
曰く
>>でも、よく混乱を招くのが鍵括弧の中、quotationの中。
日本語は鍵かっこ内最後の文章に句点を打ってはいけない。
外側に打つのが鉄則だが、英語ではそれが中に鉄則、となる。
えええええええっ!?
そんなばかな!
…というのがまず最初の感想でした。だって、小学校のたぶん1年生の段階で、原稿用紙の書き方を習ったときに、
「カギカッコの中の、最後のマル(句点)とカギカッコの『とじ』は同じマスの中に入れて一文字とすること。」 ←この赤字部分のように
と確かに聞いた覚えがあったから。そして、その後の長い学生生活の中で、私は一度としてカギ括弧の中の最後の句点を省いたことはなかったはず。それというのも、『文章の最後に句点を置かない人はきっとトイレから出てもドアを閉めない(もしかしたら「水を流さない」だったかも)人です』という強烈な脅し文句と共に強迫観念のように私の身に染みついたせいです。子ども達が小さい頃、在宅でいくつかの印刷会社をかけもちで文字入力の下請けをしていた時期がありました。そのときも、やはり句点にカギカッコが常識とされていて、コンピュータキーボードだと2文字になってしまう(ってことはつまりJIS規格では。」を一画として扱っていなかったわけですね)ために、わざわざ外字を当てはめて、一マスの中に句点とカギカッコを収めていました。
それが!今になって!!そんなバカなっ!!!
慌てて、本棚の前に立つと、片っ端から手元の本をめくり、調べてみた。
本当だ…
村上春樹も、リンボウ先生も、中野不二男も、沢木耕太郎も…みんな、会話文のカギ括弧の最後は、句点ナシで終わってる。
大げさでなく「目の前真っ暗」ショック。でもしつこく本棚を漁るうち、私が教わった通りの、句点にカギ括弧で会話文を作っている本もまたそれなりにあることもわかってきた。どうやら出版社に関わらず、その作家によるらしい。例えば、吉本ばなな、筒井康隆、それから翻訳本のいくつか(エビータや葉っぱのフレディをはじめ、つい先日ここでelmさんと盛り上がったナルニアや指輪物語の瀬田貞二さんの作品もすべて 。」派だった。そして、小学館世界少年少女文学全集も、もちろん、年代が違うせいもあるかもしれないけど、訳者に関わらず、すべて会話文の終わりは、句点にカギ括弧で統一されていた。少し安心。ドキドキした。ちなみに、カギ括弧の外側にマル(」。←こういうの)というのはほとんどなかったのだけど、わずかに見つけたのは雑誌や小冊子類。これは少数派のようです。
もう一度本棚全体を見渡してみれば、もう圧倒的に全く勝負にならない割合で、句点ナシのカギ括弧閉じが優勢なのは間違いなく、やっぱりショック状態で。一体全体、どこで私は間違ってしまったのか?と混乱するばかりでした。
まがりなりにも、日本語を教えている身分というのは、言語のプロの端くれと言っても良いわけで、その私が今まであきらかな間違い(*)を信じていたというのはどういうわけか?と大きくショックを受けたわけです。
ところが、答えは案外簡単に見つかりました。子ども達の教科書の本棚。小学1年から、中3まで、そして私の高校時代の教科書にいたるまで、日本の教科書は全教科に亘って、句点にカギ括弧で統一されているんです。
中でも驚いたのは、今中学2年の光村図書に掲載されている村上春樹の「ふわふわ」という作品。この作品の中で一度だけ出てくる会話文、
>>「なあんだ、ここにあったのか」と。
というのがあるのですが、この一文が、教科書にかかると、
>>「なあんだ、ここにあったのか。」と。
と句点がわざわざ書き加えられているんです。これほどまでに、学校の教育現場は、句点にカギ括弧閉じを重視している。(ちなみに、教科書にかかると、太宰治だろうが、他の高名作家であろうが、あますところなく、会話文にも句点がつけられます)
また、私は、赤毛のアンを何冊も所有していて、そのうち村岡花子訳が文庫本1冊と、前述の文学全集に入ったものと両方あるのですが、文庫版では、句点なし、全集版では句点あり、とやはりここでも揺れがあります。
日本語で困ったときの究極の指針である、国語審議会のサイトにpdfファイルがありました。
pdfファイル
http://www.bunka.go.jp/kokugo/pdf/kugiri.pdf
これによれば、確かに、会話文の最後には句点をつけてカギ括弧を閉じるのが、やはりスタンダードのようです。つまり、学校で教えていることが間違っているわけではない(はず)。
しかし!現状で、圧倒的な数の印刷物が違うルールによって綴られ、その現場では、学校で教えているルールを「間違い」と断じているというのなら、一体我々はどこでモノを学べばいいんでしょう???義務教育の教科書がスタンダードでなかったら、何を以て勉強すればいいのかな。
現状を無視して、古いスタンダードを押しつけている学校教育現場が悪いのか、それとも国語審議会が曖昧なままにしておくのが悪いのか、あるいは突っ走る印刷業界が悪いのか、はたまた、ルールというものがあってないような日本語そのものが悪いのか。←これはつまり国語審議会が悪いのか??
いや、何よりも今まで、脅迫観念的に自分の書く会話文に。」を使ってきながら、世間どころか、自分の半径30センチにも溢れまくる印刷物のルールに気付かなかった自分の鈍さってどうなのよ!?と情けなくなります。
どちらにしても、今まで自信を持って、「会話文の最後にはマルとカッコトジを同じマス目の中に書いてくださいね。」と指導していた私の立場はどうなるのだ!?ほぷちゃんもくっきーも、チンピラも、これからいったいどうやって喋ったらいいのだ?と私は大変に混乱中なのであります。
私が直接話法を使うとき、カギ括弧に入れるのが文章なら、迷わず句点で締めてからカッコで閉じていたけれど、単語とか、二語文程度なら句点を付けないこともあります。そういうことも意識して使い分けていたつもりだったけれど、無駄だったのかも。余談ですが、っていうか、余談と言えば全部余談なんですが、。」派(笑)の本だと、たとえ一語文(単語だけ)でも「マリラ。」みたいに無理矢理マルが付けてあって、それもなんだかなあ、とは思います。
大部分の人には「どうでもいいじゃん、大げさな」と言われそうなことではあるのですが、やっぱりどうしてもこの問題、気になってしまいました。本題と違うことにここまでひっかかってしまってリジィ子さん、ホントにごめんなさい。英語のpunctuationについては、私も一度は真剣にがっちり習ったのですけど、当時はその講義の英語がまたよく理解できない状態だったことも手伝って、記憶はボロボロなのです。
みなさん、マルはカギカッコの前に付けますか?後に付けますか?それともつけませんか?どこでルールを習いましたか?私、明日から犬たちのセリフ、どうしよう。
どうかご教示願います。あ、参考までに、混乱の中で見つけたサイト
http://kikitai.teacup.com/kotaeru.php3?q=2550797
そこからリンクされていたサイト
http://www.kotono8.com/2004/01/06kutoten.html
(*)「あきらかな間違い」ではないにしろ、数の上で圧倒的に少数派に転じてしまった状況のことです。
こんなときにこんなに咲いてくれたとっておきのほぷちゃんバラ。なぐさめてくれてありがと!
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本当だ…
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>>「なあんだ、ここにあったのか」と。
というのがあるのですが、この一文が、教科書にかかると、
>>「なあんだ、ここにあったのか。」と。
と句点がわざわざ書き加えられているんです。これほどまでに、学校の教育現場は、句点にカギ括弧閉じを重視している。(ちなみに、教科書にかかると、太宰治だろうが、他の高名作家であろうが、あますところなく、会話文にも句点がつけられます)
また、私は、赤毛のアンを何冊も所有していて、そのうち村岡花子訳が文庫本1冊と、前述の文学全集に入ったものと両方あるのですが、文庫版では、句点なし、全集版では句点あり、とやはりここでも揺れがあります。
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お詳しいですね。業界の方なのでしょうか。
「本来は句点入りが正しくて、学校でもそう教えているが、現実には[字数の問題で]句点を省略している」ということになるんですね。
私もそのように理解したのですが、印刷・出版業界では、「句点なしはあくまでも[省略]である」ということを忘れているのかもしれませんね。
新聞では、字数の問題で文末の句点は全て省略されています。正確には、実際に直にしゃべった言葉(セリフ)には句点をつけます。何かからの引用には句点はつけません。学校の教科書、絵本等はセリフには全て句点が打たれています。
こんな感じです。
「真面目に働く事は大切だ」と、あなたは言いますが、(その内容がっていう意味で「」にいれます)
「真面目に働く事は大切だ。」と彼はいいました。(直に喋った時)
このケースだと、「You are too optimistic!」って感じかなぁと言ってみたんだけど、全然「甘いっ!」には敵わないですよね、インパクトが。英語の方が便利な言葉、日本語の方が便利な言葉、両方あるとついつい便利な方を選んで使いたくなります。英語ならwaterで済むところを、日本語だと「植物に水をやります」なんて文章になるし。それでもそれぞれの言語を交ぜちゃいけないっていいますね。難しいなあ。
私ね、」。なんて見たこともなかった…なんて思いつつ、全くの別件で全く関係ないBBSに、ちょっと新聞サイトの一行をコピペしたの。そしたら、その文章が」。だったのよー!しかも、最初、無意識のうちに、そのマルを一度消しちゃってから、ハッとしたんです。今までもこういうのを勝手に意識の中で消してたんだろうなって。我ながら呆れました。
いやね、アメリカ人と話しててupsetって良く言うけど日本語でズバリな言葉は無い様な気がする。って言ったら「じゃあ知り合いの日本人に聞いてみるわ」って。で、聞いてきたら「(その日本人の)彼女は日本人はupsetしない。だからそんな言葉は無い」って言ってたよ。って言われて、じゃあしょっちゅうupsetしてる私は何なのさー。って思ったんですよ。
でも訳的にはTAMAさんの”怒りの混じった混乱”ってのが一番しっくり来ますね。
でも、「○○」。っていうのは、全然知りませんでした。
本文中には「ビックリ」なんて上品に書いてみましたが(どこが上品だか)実際はもう「ガッビ~~~~ン!!」って感じでしたよ。
カッコの後にマルはそういう使い方をするんですねー。これもまた学校では習っていないと思うので目から鱗です。ほほー!勉強になりました。例文も含めて…orz
そうです。言葉は時代と共に変化するもの。でも、学校現場で教えていることが社会で間違いとされる、というのにだけはやっぱり納得はいきません。コドモを混乱から守るためなら、大人を混乱させてもいいのか~!とコーフンしそうになります。
私としては、どちらかが正しいのではなく、「どっちでもいいよ~」というのがいいな。どうせここまで曖昧な言語なのだから、とことん曖昧になってもらおうじゃないのっ!ってとこでしょうかね。でも「ら抜き」は微妙。
後ですね、」。←このように表記するのは、会話が続いている時には絶対にありません。これ(」。)というのは、例えば、心の中の呟きなんかを表記する時、言い放たれた感じを表記する時、その括弧内表現のみでぷっつり終わる時に使います。
なので、少数派という事ではなく、使う場面がそれ程ない、という事なのです。
例文にすると、こんな感じです。
突然何を思ったか、娘が言う。
「お母さんったら、足、太いわね」。
ガガーーーン!!!
みたいな?
でも、会話が続いている様を表記する時にはそうはなりません。
「お母さんったら、足、太いわね」
「あら、あんたは腹がでっぱりじゃない?」
「よく言うわよ、二重あごのくせして」
「ぬぅわにぃ~~~!」
言葉というのは、時代の流れの中でどんどん変わって行きますよね。それと一緒で、書き方も変わって来てしまったんだなぁ、と思いました。
ですが、学校においても、その流れというのは教えるだけは教えておいた方がいいんじゃないのか、とは思いました。子供が混乱するからなのかもしれませんけれど。
とにかく、私も勉強になりました。小中学校関係物は『 。」』だけど、それがジャーナリズムの世界になるなら『 」。』になるのです。
でも、やっぱりニュース書く人で括弧内句点だけはやめて欲しいなぁ、とひつこいようですが、思っています。すみません!
はじめまして!コメントありがとうございます~!
大学で注意されたんですね!ということは、その先生は学校教育と印刷業界の狭間で印刷業界側だったということなのでしょうか??? ほー!
私は、文章を書くときは例外なく句点にカギ括弧を使っておりましたが、それで注意された覚えはないです… 業界が児童福祉・幼児教育だったので学校現場に近かったせいかもしれませんが。
また気が向いたら書き込みしてくださいね~
いや、それが普通の反応だと思います。私はたまたま、そこにこだわりが強かっただけで…。学生時代は「言語」なんて単位も取った覚えが…でも教科書さえ残っていませんが。
そして、学校で学んだだけでなく、一応印刷業界にも関わっていたし、更に今、日本語を教えているんですもの。なのにそれから10年ちょっとでそんなに常識が変わってしまったなんて驚いてしまって。
>>もう見んかったことにさせて~~~”
この表現、気に入ってしまいました。「見んかったことにさせて!」いいですねぇ。私も人生の大部分をそうして過ごしております。
>>正しくは 。」ですが、
それが、現代の印刷業界では、「正しくは句点ナシ」ということに既になっているようです。一体、いつの間に!誰が変えたの!? と言いたいですよね。
やはり言葉の常識が変わっていくように、ルールの常識も変わっていくのでしょうか。「どっちも正しい」っていうふうになってくれれば一番いいのですけど。
>>「でもいまさら直らないでちよ。」
(笑)ウケました。私も微妙にそんな心境です。でもね、「間違いだ」とされているのなら、直した方がいいのかな、とも思います。しかし、学校現場では未だに(現役のたいゆうさん御長男が)教わっているということで、また依怙地になってしまいそうです。
>>ドリルかなんかで箱の中に書いた覚えがあるある。
おお、あるあるある!! 学校で習ったことが間違いっていうのは勘弁してほしいですよね。責任者、出てこーい!
>>Lila管理人さんのコメント、ウケました。
LiLAさん、よかったですね!ギャグ、素敵だってちろこさんが言ってますよ。
なんつって ←しつこい
ですよね、ですよね、「絶対に」って習いましたよね!(こうしてコメントを頂いていると私と同学年かその少し下あたりに「絶対」と習った人が多いような…)
お子さんに教えるとき、イキナリ、学校では絶対にマルが必要だけど、社会に出る文章では絶対にマルをつけちゃいけないよ。なんてダブルスタンダードはイヤですねえ。「どっちでもいいよ」の方がいいな。
>>小学一年生の長男。国語の宿題で句点は1マスを十字に区切った右上に、鍵括弧は左上に書いていました。
ほんとだ!私も今、小学一年「しょしゃ」の教科書を開いてみました。べっくりです。カギ括弧は左下で習ったように思います。それともマルと同じマスならどこでも良かったとか???いや、左下だった気がするなぁ。
どっちにしても学校で教えていることが「社会では通用しないよ」っていうのはやっぱり詐欺なんじゃないでしょうか。そういえば、かなの筆順に関しても女王様と私とで論争になりネットに飛び火したことがありましたっけ・・・
ダメですね、今どきのギャグ界では「なんつって」は死語とされています。もう通用しません。常識です。勉強してください。
なんつって。
>>その時に書かれていたのは、。」 は古い作法で、今は 」のみが主流である、となっていました。
おお、そうですか!それは私には見つけられなかった情報です。あ、でも今でも学校では 。」で教えているし、昭和40年代発行の本でも 」のみっていうのも多いんですよ(そんな本が未だにゴロゴロしてるうちの本棚)。
「ノベルチェッカー」やってみました。おもしろいかも。そういえば、私もネットを始めた頃というか、少なくともパソ通時代は、行頭一段下げしてました。
でもインターネットに切り替えてからしばらくして、どこかで、「印刷物とは違うからネットの文章で行下げなんかするのはおかしい」という主張を見かけて、それもそうだなーと思ってやめたんです。その時に 。」のことも悩んでおけばよかったなあ。
というのも、私も同じことでショックを受けたクチなので・・・
小学校では。」で習いその後ずっとそれできていたのに、大学の時に先生に注意され衝撃を受けました!私は勝手に習ったときの年代の差だと(失礼ですね(^^;)思ってましたが。。
たぶん&あまり使うことはないのでしょうが、論文・レポート等は句読点なしが一般的なのでしょうね。
すごい!小学校時代にもう、「両方の書き方がある」と柔軟に教わってらしたんですね~。私もそういう学校が良かったなあ。児童文学の世界では、今でも 。」で統一されているようですね。
upsetですが、やっぱり当てはまる言葉は私には見つかりません。日本語を話す中で英単語を当てはめたりするのは「よくないこと」の代名詞のように言われていますが、(そして実際バイリンガル教育には絶対してはいけないことなのはもう常識になっているようですが)でも、日英入れ替えられない言葉ってたくさんありますよね。
先日、日本語堪能なアメリカ人の友人が、お父さんと旅行の打ち合わせをしていたときのこと。お父さんが「ホテルなんて当日行ってから決めればいいさ」って言ったんだそうです。(もちろん英語のみでの会話)そこで彼は思わず、日本語で「甘いよっ!」と言いそうになった。でも当てはまる英語が見つからず大変にフラストレーションを感じたそうです。日本語の「甘いよ!」のつもりで[You are too sweet!]なんて言ったら、むしろ意味逆だし(笑)。で、その彼に「英語で、日本語の『甘いよっ』ってなんて言う?」なんて質問されて寝たふりをしたのは私です。
お久しぶりです~
ほぷちゃんバラ、だんだん美しくなってくるようです。今日やっとまともにバラの扱い方を少しだけ勉強したので、これからもっと綺麗に咲かせられるようになるかな?
きっとちぎさんは、学生時代に習ったことにとらわれず、目から入った情報を柔軟に取り入れてらっしゃったんじゃないでしょうか。
出版物のできあがりがどう校正されて来るのか、楽しみですね。
>>どっちでもいいんだろな、と思ってました。
いいかげんだわ(笑)
いや、たぶんこれが正解なんだと思います。数日間いろいろ調べて悩んだ結果、今そう思います。
学校ってところが、押しつけすぎるのかもしれないですね。「これが絶対!」って。
私は、たまに(と思っていた) 」の前にマルがなかったりすると、「あ、忘れちゃったのかな」なんて思ったりしていました。それほど、学校での「マルを付けないヤツはトイレのドアを…」みたいな刷り込みが強かったんですね。とはいえ、この「トイレのドア」にしてさえ、こちらに来たら日本と常識が逆だったりするんですが…。
そうそう、結局厳密に定められたルールはないのですよね。だったら、学校でも「これが絶対」のように教えるべきじゃないし、印刷業界も「こちらが正しい」と言うべきじゃないように思うんですが、やっぱり「どうなってるの??」と混乱しちゃいます。
だからといって、「ルールを作ろう!」ってのもヘンな話ですね。やはり個人の好みで使っていくしかないのかな。
本日、日本で外国人に日本語を教えている人、この方は専門の教育も受け長い間教えている人ですが、この方に伺ったところ、。」でした。
「でもいまさら直らないでちよ。」
私もTAMAさんと同じく小学校で習いましたよ。
ドリルかなんかで箱の中に書いた覚えがあるある。
Lila管理人さんのコメント、ウケました。
(火に油ってこの事でちね。)
私は、「絶対に、カギ括弧の前に丸をつけるべき。」と習って来ましたよん。(笑)
たかが○、されど○
これから本を読むときに、気になりそうです。
自分の子どもに教えるのにも悩みそうですね~~
小学一年生の長男。国語の宿題で句点は1マスを十字に区切った右上に、鍵括弧は左上に書いていました。終わりの鍵括弧は左下に書くんじゃないの?と長男に聞いたところ「違うよ」と。教科書を調べると長男の言うとおりでした。
私も長年、勘違いしていたのか間違って憶えちゃったのか、国語が変わったのか・・・・・驚きました。
「くとうてん」のところが、「くどくてん」になっちゃってますよ!
なんつって。
でもここ数年は 」で統一するようになりました。
実は別サイトで小説のようなモノを書いているのですが、以前同じように 。」と 」問題にぶち当たりまして。
なぜ気づいたかというと、同じ書くならちゃんとした作法で書こうと思い、調べてみたのが始まりです。
その時に書かれていたのは、。」 は古い作法で、今は 」のみが主流である、となっていました。
以来、」のみで書いています。
余談ですが、小説の地の文と会話の文のバランスや全体の文字数をカウントしてくれるサイトを利用しているのですが、そこにも 。」や三点リーダー(……は二文字セットが基本。…一文字では使ってはダメ)等の文法チェック欄が存在します。
やはり今は 。」はダメって方向になりつつあるのかもしれません。
「ノベルチェッカー」
http://matufude.hp.infoseek.co.jp/novelchk/
話しはかわりますがupsetって日本語にしたら何なんでしょうね。ずばり当てはまる言葉は無いように思うんですが、ちなみに自分はしょっちゅうupsetしてますが、日本語でこの状態を表現するとなるとなんか良い言葉が無いなー、って前から思ってる疑問なんですが。。。いかがでしょうTAMA先生。
ほぷちゃんバラ、なんてきれいなんでしょう!
お花は和みますね^^
考えてみると、学校では。」と教わり、学生の間はその通りに書いていた遠い記憶があります。
なのに、最近はつけてないです。
いつからつけなくなっちゃったんだろう~?
気になりはじめました。
出版社さんで記事を書かせていただいてるんですが、どう校正されてたか、あとで確認してみます。
某バンド公式サイトの翻訳記事を載せる際、統一した方が良いだろうなと思って。
確かに学校では。」と習いましたよね。
でもここ数年は、自分では。つけてません。
私はルールがあってこれじゃなきゃダメ!というよりも、こっちの方が何となく好きかなあって感じで(^^;、どっちでもいいんだろな、と思ってました。
いいかげんだわ(笑)
読み返してなんとなく感じたのは、「中」も「外」も各業界内(編集だったり審議会だったり…あれも外界と隔絶した官僚業界な気が)でのいわゆる内部規範であり、巷間に普遍的に浸透している鉄則ではないんじゃないかなということです。
複数のルールが混在し、どれも独自ルールの域を出ていないような気がするので。
中も外もナシも文法、文化、慣習いずれでもいいですが、決定的な揺るぎない裏付けや理由はなさそうだし。
これはこれで柔軟な(すぎる?)日本文化の一面を表しているようだなぁなんて感じました。
私は各社文庫本の微妙な字体の差とか紙質の差とか栞紐がついてるか否かを、地味に比べてたりはしてたんですが(楽しみの暗さでは負けません)、まるの使い方にはさほど関心を持ってませんでした。
打ち方は3種類(中・外・打たない)くらいあるのだな、とうっすら感じてたくらい。
でも今回の記事を読んで、自分もかつて教えられたルールに固執してたのかもと思いました。
思い起こすと、確かに学校では中に打つよう教わった記憶があります。
雑誌の記事で外側に打ってるのは雑誌であって本ではないからだと思ってました。
プロのライターが書いてるという可能性を考えずに、雇われてる編集者が書いてるなら言語の研鑽を積んでる作家と違って当然、つまりそこまで神経を使ってないものなんだろうと思ってたんです。
プロとして編集なりライターをなさってる方々には甚だ無礼ですが、雑誌は本より下のもの、読み捨てのものという無意識の差別感覚が働いてたのかも。
誤字脱字の頻度も雑誌のほうが多いイメージがありましたから。
リジィ子さんの記事を拝読して、厳しく決められたルールがあり、それに沿って真剣に細やかに臨んで記事を書き校正してるという事実を知って、こちらのほうが目からウロコでした。
と同時に恥ずかしいな、とも思います。
そんなことも知らずに侮っていた傲慢さに気づかされました。。。
本題とはズレてますが、気づくきっかけをいただいて感謝です。
あ、私が自分でまるを使う時は、その時の気分で「中」か「付けない」です。
一文を締めるものなら中かなあという漠然とした意識によると思われます。
何の参考にもなりませんが^^;
わーい!同じだ!!
義務教育でホネの中まで浸み込まされたものが、ある日気付いたら間違いと言われるようになっていたなんて、びっくりですよね。私もたまに「あ、マル忘れてるのかな」なんて思うことはありましたが、まさか印刷物のほぼすべてがそちらのルールになっているなんて気付きませんでしたよ。
今後は…私、どうしようかなぁ。
最近、TAMAさんがおっしゃるように会話文の最後にマルの無い括弧をよく見るようになったのですが、そっちが主流とは全く思わずに「え~、マルが無いよ?変な書き方するなあ。」と思っておりました。
でも、今後も私は括弧の中にマルで通すと思います~。(^_^;)
カッコの中にマルということは、学校で習ってそのままですよね。私も全然疑っていなかったので、本棚の本を1冊ずつめくるたびに衝撃でしたよー。