アモーレ・カンターレ・マンジャーレ

自称イタリア人のオヤジが、好きなサッカーやらグルメやら、何でも不定期に気まぐれに書き綴るサイトです。

忠臣蔵の話続編その一

2017-05-20 06:00:07 | 薀蓄

先日の記事で、若者の間では、すでに忠臣蔵は常識ではないということを紹介した。そして、その記事の中で松の廊下で、執拗なイジメはなく、かつ浅野内匠頭は後ろから斬りかかるという無礼な行為をしていたことを紹介した。

 

 今回は、さらにその続編として江戸幕府の策略を紹介しよう。まず、赤穂浪士四十七士および浅野内匠頭の墓が高輪泉岳寺にあることは有名だ。この場所は江戸ではない

 今では小さな石垣や碑ぐらいでしか確認できないが、江戸とその外の世界を分ける関所的な門として、何か所か大木戸というのがあったが、高輪の大木戸が有名で、まさに泉岳寺はそのすぐ外に位置している

 

 では、この泉岳寺は誰が創建したお寺かご存じだろうか。実は、このお寺は徳川家康の創建なのだ。そこで、冷静に考えてほしい。

 庶民の評価や人気は別として、幕府にとっては重罪人の赤穂浪士を家康創建のお寺に葬るのは普通だろうか。

 

 そして実は、高輪大木戸は1703年の赤穂事件の後、1724年にそれまであった札の辻から現在地に移転しているのだ。

 あくまで状況証拠だが、江戸庶民に泉岳寺をイメージし、赤穂事件を思い出させる仕掛けがあったとしか思えないのだ

 

 ついでにいえば、浄瑠璃などで心中物が上演禁止になる中で、たとえ時代設定は架空であっても、ミエミエな仮名手本忠臣蔵が上演禁止にならなかったのはなぜか。

 さらに追加すると、四十七士の多くは、紀尾井町周辺をはじめとした江戸城のお膝元に潜伏していたという事実だ。ご案内のとおり、紀尾井町は、紀伊・尾張・井伊という徳川ゆかりの屋敷のあったところで、江戸城の正門は半蔵門であったから、まさに正門の周辺ということになる。ここも、今の我々が勘違いしているところだ。

 

 さらに有名な事実は吉良家が江戸城の北町奉行所近くに居を構えていたのに、松の廊下の事件の後、本所に移転させられたということ。

 これまた状況証拠だが、幕府は四十七士の動向を把握した上で、吉良家への討ち入りを黙認していたとしか思えないのだ

 

 さきほどの泉岳寺でいえば、討ち入り後の浪士たちは堂々と大木戸(当然、当時は札の辻にあったもの)を通過して、泉岳寺の殿の墓前に向かったことがわかっている。血まみれの浪士たちがフリーパスだったのは、なぜ

  やはり、幕府から情報連携かあったとしか思えない。

   当時は、江戸から旅立つ人たちを大木戸まで見送りに行くことは常識であった。そこまで行けば、否が応でも泉岳寺が目に入り、立ち寄るかどうかは別にして、誰もが赤穂浪士のことを思い出すはずだ。


 そのためのシチュエーションとして、札の辻から移転する必要があった・・・と。

 少なくとも幕府は、江戸から旅立つ旅人たちや見送りの人たちの口コミを通じて赤穂浪士の噂が流布すること、イコール赤穂は義士で吉良は悪人という図式を流布させる目的があったと推測されるのだ。

 

 では、なぜ・・・その辺はさらに別稿にて。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 忠臣蔵は若者にはポピュラー... | トップ | 忠臣蔵の話続編その二 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

薀蓄」カテゴリの最新記事