さて、本所の吉良邸討ち入り後、読者の皆さんはご案内のことと思うが、赤穂浪士は切腹し泉岳寺に埋葬された・・・のだが、その後となるとご存じない方が多いはず。
実は、その後浅野家はお家復興し、逆に吉良家はお家断絶になっているのだ。(厳密には吉良家はその後、旗本の格式で復興しているが・・・)
松の廊下の事件で、浅野家はお家断絶、吉良はお咎めなしになったのと正反対の結末だ。実はこれこそが、幕府の狙ったゴールだったという説だ。
ここに至る前に、まず吉良家について簡単に整理すると、吉良家は愛知県幡豆郡を領地として、地元では善政を取った領主として人気があるという。
こちらが地元にある吉良上野介の墓だが、手厚く祭られている由。またその石高は3000石というので、大名ではない(大名は1万石以上)・・・石高でいえば大きな旗本クラスというべきだが、領地がある(知行取り)ことがポイントだ。
もう一つ吉良家は、高家という格式を持つ。高家とは清和源氏~足利将軍家の系譜を持つ名門で、今川家とともに「御所(足利将軍家)が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」とまで言われたくらいだ。
徳川も一応清和源氏系を名乗るのだが、格式でいえば比べるべくもない。だから幕府からすれば、石高は低いが粗末に扱うわけにはいかない家となる。
だが、それにしたって、幕府からすれば適当にあしらっていれば済むわけで、取り潰しにまでとなると、徳川家の執念を感じざるをえない。
それを類推するヒントがこちらの地図だ。松平(のちの徳川)は三河の岡崎だが、幡豆郡はその川の下流に位置する。
ここからは状況証拠であるが、吉良は徳川にとって、治水や塩田の利権を有し、永年何かと美味しいところを奪われる構図だった可能性が高いと思われるのだ。
よって、吉良の領地が没収できれば、石高以上に永年喉に突き刺さった骨が取れるような思いだったのではなかったかと。
領地さえ奪ってしまえば、同じ石高を米の形(つまりサラリー)で渡したとしても何の問題もない。上に書いた旗本として復興というのはまさにそのことを意味する。
つまり忠臣蔵という美談の裏には、その事件を利用し、永年の課題であった吉良家の取り潰しを狙った幕府の策略が隠れていたのだ。
あまりに有名なこの仇討ち物語も、実は・・・しかも、幕府のプロパガンダに使われていたとは・・・と。というところでこの話を一区切りさせたい。
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