アモーレ・カンターレ・マンジャーレ

自称イタリア人のオヤジが、好きなサッカーやらグルメやら、何でも不定期に気まぐれに書き綴るサイトです。

名胡桃城祉

2019-04-26 07:00:00 | つれづれ

 

月夜野矢瀬親水公園を後にした小生、ここから名胡桃城祉に向かった。月夜野インターから国道17号線のバイパスを走るとすぐに目に入るのが、ここ名胡桃城祉だ。

 

 かつて小生が猿ヶ京温泉に行っていた頃、ここは歴史マニアでもなければスルーするようなところだった

 表記こそあったが、特に管理もされている様子もなく、普通に車を停めて普通に入れたのだが・・・例の「真田丸」をキッカケに環境整備がどんどん進み、今ではそれなりに整った観光スポットになっていた

  

 

 もちろん城というより砦のようなもので、規模も小さいが、この城がまさに歴史の中で与えた影響は大きかった。さて城のすぐそばに元々あったカフェは町が買い取ったのか、観光案内所になっていた。入ると様々な資料があるほか、ビデオで歴史を紹介していた。

 興にのって、幸村よろしく兜に陣羽織を着て写真を撮ったり・・・も(苦笑)

  

 改めて名胡桃城について振り返ると、真田信繁(幸村)の父昌幸は、天正17年の北条氏との領地の裁定において、沼田城を含む上州のこの周辺をすべて渡す流れとなっていた

 ところが裁定者である秀吉に対し、昌幸は口から出まかせで名胡桃には先祖の墓があるので、残してほしいと訴え、利根川・赤谷川を境界とし、真田の領地として残した。

 

 こちらの地図をご覧いただこう。濃い灰色は元々の北条の領地、黄色はこの裁定で北条の領地になったところだ

 名胡桃を残したことで、北条の領地に真田領がナイフのように食い込んでいることがおわかりいただけることと思う。

  

 実際の地形でも、利根川の作る河岸段丘の間に、関東に続く平野があり、名胡桃から遠く沼田城も見える。

 逆にいえば、北条からすればこの要害がジャマなわけで、その後ほどなくして利根川が国境となっていたのを乗り越えて名胡桃をのっとってしまった

 

 これが秀吉の逆鱗にふれ、後の北条攻めにつながっていくことになる。映画「のぼうの城」などもこのときの戦いのひとつだが、これがまた石田三成のトラウマになり、関ケ原にもつながっていく・・・まさに歴史のアヤになったわけだ。

 ということでこの城は、幸村に直接関係していたわけではないのだが・・・こちらの写真はイメージということで(苦笑)

 

 さて、観光案内所の入り口には小松姫のアニメ版もあった・・・ちょっと色っぽ過ぎるが・・・

 ちょっと前まで見ていた矢瀬は義家ゆかりの地でもあった。時代はまったく違うものの、この地が数々の歴史の中でキーポイントとなっていることを再認識することになった。そういえば、ここからほど近い猿ヶ京は上杉謙信が名付けた地

 

 上杉にとっては関八州へ攻めていく拠点でもあったのだ・・・こうした北条・上杉・武田にはさまれた真田が、戦国時代を生き抜いて行く・・・それこそが真田丸だったんだよなあと

 あ・・・いかん、ついつい話がそちらに行ってしまった。

 

 でも、来る度変わっている名胡桃城祉、次回は天守閣ができてたりとか・・・やめてくれよ(苦笑)

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