アモーレ・カンターレ・マンジャーレ

自称イタリア人のオヤジが、好きなサッカーやらグルメやら、何でも不定期に気まぐれに書き綴るサイトです。

国宝彦根城

2009-10-30 06:49:47 | つれづれ
先日、ひこにゃんに会いに行った小生であるが、歴史マニアの小生としては当然ながら彦根城を見に行くのも目的のひとつであった。


 彦根城は、日本に現存する建築当時のお城のひとつで、国宝である。しかも建築年代が古いため、城が政治的な位置付けになる前の戦争を前提とした仕掛けが多い。
 お城への道を進むと、ほどなく見えてくるのが天秤櫓と呼ばれる櫓で、切り落とし橋を落とすと見事に入路を絶たれる。(下中写真)

 しかも、この櫓、防御のために、壁の厚さが尋常ではない。まずはここにこの城の本質を見ることができる。
 天守自体はあまり大きくはないが、小高い山の頂上にあり、琵琶湖も見渡せる。まず特徴のひとつが石垣で、自然石を加工せずに積む、牛蒡積みというもの。


 江戸城や大阪城のようなきれいに加工された石垣と異なる。実は先日のひこにゃんの記事の写真をよく見ると、その特徴がわかる。
 当日は、併設する博物館にも立ち寄った。井伊の赤鬼と呼ばれた赤の鎧がお出迎えしてくれた。これがまさにひこにゃんの原型か・・・

 さて、城に入るとものすごい急な階段が現れる。これは、戦時においては、階段の長さが短い方が早く進めるからだそうだ。
 正直、ミニスカのお姉さんだと危険な状況だ。えっ、この写真はそういうのを狙っていたんだろうって? いやいや・・・(←十分怪しい)

 さらに鉄砲や矢を撃つための狭間が多い。しかも外からはその存在がわからないように、普段は目隠しされている。このあたりは、戦争を前提に組まれていることがよくわかる。
 一方で、江戸時代を通じ、ずっと井伊家の居城であったこともあり、周辺の環境もすばらしい。下の写真のひとつは玄宮園といわれる庭園である。


 ここで一休みし、抹茶をいただいた。前日に落語「茶の湯」を聞いていた小生、思わず台詞をつぶやいていた。(苦笑)
 庭園から見上げる天守はひときわ輝いていて美しい。なるほど、お城自体が近江八景のひとつになっていることがよくわかる。

 ゆっくり回って一時間半。彦根城は機会があれば、マニアでなくても一度は訪れる価値のあるお城である。
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2 コメント

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本当なら彦根県になっていたはずですが。 (虎波男女子★彡(こなみみなこ))
2009-10-31 14:46:07
 桂さま、彦根城も見学されたんですね。小さなお城ですけど、コンクリート造りではない昔からのお城ですわね。

 さて彦根には石田三成の佐和山城があったんですが、石田三成に代わって彦根の地に井伊直政が入ったんですが、三成は領地で善政を敷いていたために、領民からも大変慕われていたので、直政はその威光を払拭するため新たに彦根城築城を計画しました。
 しかし、直政は築城に着手できないまま1602年(慶長7年)に死去したため、嫡子の直継がその計画を継ぎ、佐和山城などの築材を利用して建造した彦根城が完成し、1606年に直継が入城しました。実に大掛かりなリサイクルでできたお城なんです。

 直継の次の藩主が直孝。ねこに招かれてお堂に入ったら、雷の直撃を避けることができた……招き猫・ひこにゃん伝説のお殿様です。

 北近江を統治していた彦根藩ですが、廃藩置県で彦根県だった時期もあるんですが、明治政府は彦根藩の領地の一部だった長浜を長浜県として独立させて、彦根県を長浜県に編入させてしまって、さらに今では近江の国の範囲が滋賀県になってしまいました。ちなみに滋賀県の滋賀は県庁所在地が滋賀郡だったことに由来するそうです。

 彦根県の名前が残らなかったのは、井伊直弼への恨みが明治政府にあったから……という説があります。
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まさにそうなんでしょうね。 ()
2009-10-31 19:35:28
まあ大津は古くからの都ではありますが、本来は彦根が中心だったんですよね。
考えてみれば福島も会津が本来の中心ですが、明治政府が嫌ったといわれてますよね。
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