鉄道博物館にて展示されている金剛丸の模型
こんにちわ、ここは大宮鉄道博物館の一階左側にシューケースに入り展示されている
縮小模型の金剛丸です。
前回の続きをもう少し詳しく書きたいと思います。
金剛丸は、鉄道省、関釜連絡船の鉄道連絡船で豪華客船の第一船。
北朝鮮江原道にある有名な名勝名山金剛山の名を取り「金剛丸」と命名した。
関釜連絡船は、1903年9月11日開設され、1904年12月鉄道国有化になり
鉄道院に引き継がれた。
同航路は、もともと私鉄であった山陽鉄道傘下の山陽汽船が運航を開始した航路で、
鉄道国有法によって山陽鉄道が国有化されたために鉄道院となった。
第2次世界大戦前までは日本から朝鮮半島、満州国、中華民国そしてヨーロッパにに至る国際連絡運輸
の一部としての役割も担っていた。
日本と朝鮮半島との間を結ぶ連絡船として独占状態にあり、他には「君が代丸」(大阪と済州島を結ぶ)
だけであった。
(鉄道院とは、国鉄、JRグループの前身です。)
船首は、従来の海峡渡船型とは違う巡洋艦を意識した軽く傾斜したものとなり、
上部は美しい曲線で前面にわん曲し、船尾は華奢な形となっている。
金剛丸 7000トンの大型船!
1936年10月に建造され1953年10月解体された。
機関 | ボイラー8缶/蒸気タービン2基、2軸推進 | |
出力 | 17,632hp | |
航続距離 | 8,500海里 | |
速力 | 23.2kt | |
経済速力 | 22kt |
乗客定員 | 1,746名 | |
貨物積載量 | 3,174t | |
姉妹船 | 興安丸 |
画像検索から当時の絵はがきを見つけました。
船は歓喜と待望とを乗せて
一路釜山へ
颯爽(さっそう)と白波を蹴立てて進む海の女王
金剛丸!
見よ!
豪華なる彼女の麗姿!
★颯爽(さっそう)とは、
人の姿・態度・行動がきりっとしていて気持ちの良い様。
「海の女王」と呼ばれた。
7千トン級で従来の船の2倍の大きさ、高速23ノットで下関ー釜山港を今までの約8時間
から約7時間に1時間短縮した。
日本で最初に建造された豪華な客荷船でした。
航跡
日本と朝鮮・満州を結ぶ大動脈であり乗客や貨物は年々増加する一方だった。
1932年満州国が建国されると渡航制限が加わる位に従来の船では航行が間に合わなくて、
輸送力の増強ため大型の新造船第一号として金剛丸が造られた。
1936年10月三菱重工業長崎造船所建造。
速力は、これまでの日本商船の最高記録23ノット超を示し、
8時間かかった関釜夜行便を7時間に短縮した。(Ⅰ時間短縮)
この時すでに三菱重工は軍用船を建造していた。
大型船では自然換気だけでは不可能などで湿度調節するキャリア式冷房機によって
全室冷暖房を完備、
航海は快適だった。
客室の構成は、夜航便に使用する目的(旅客が最も集中する)で設計され、
各種のパブリック・スペースは備えず、乗降船時の雑踏を緩和し、客室の利用を多くした。
また出入り口には、広く明るい大ホールを税関・検疫などの受検所として設けた。
このホールは税関と検疫が済むと3等客にも談話室、喫煙室あるいは、娯楽室として開放し、
鉄道案内所、食堂及びスタンド式売店を隣接させた。
客室は、1等が遊歩甲板、2等が次の船橋楼甲板、3等がその下の上甲板と第2甲板になっていた。
船内の装飾は、モダンな中に朝鮮様式を踏まえたものが施されていた。
石炭を炭庫に運ぶためベルトコンベアを採用し、船内の電力を世界初の全面交流化した。
この結果発電機は従来の直流発電機の70%程度の容積・重量になり、
既製の電機機器を利用してイニシャルコストを低減し桟橋(さんばし)に係留中は、
陸上の電力を使用してランニングコストの低減を図った。
連絡船として就航
金剛丸は1936年11月15日に就航。
姉妹船の興安丸が翌年1937年1月31日に就航し、この2隻就航で旅客定員が倍増したので渡
航制限は解除された。
【興安丸は戦後の引き上げ船として活躍】
しかし、両船の就航で関釜間の旅客は鮮満方面と行き来する旅客ばかりか日本軍や開拓団が加わり混雑し、
1937年に100万人を超え1942年には実に300万人を超える激増ぶりであった。
切迫した需要の急増により、引き続いて建造された船が、軍艦建造優先のため完成は大幅に遅れ、
1942年にやっと天山丸,1943年に崑崙丸就航することとなる。
金剛丸は軍事徴用はされなかった。
戦争の激化に伴い、日本近海で商船が沈められる被害が相次いだため関釜連絡船には
いっそう負担がかかることとなり、
金剛丸も本来の関釜連絡船以外にも博釜連絡船で運用されていたが、
1945年5月27日に釜山から博多へ向かう途中、博多湾で機雷に触雷し、
死者1名負傷者4名が出た。
触雷の浸水はひどく、沈没を防ぐために残島付近海岸に座礁し終戦を迎える。
航路
- 関釜航路 下関 - 釜山 240km 所要7時間30分(1940年10月)
- 博釜航路 博多 - 釜山 215km 所要8時間10分(1943年7月)
●航路1905年(明治38年9月11日)-
山陽汽船大韓帝国 への外国航路京釜線として下関 - 釜山間に
「関釜連絡船」を隔日1往復を新設。
壱岐丸が就航。
- 1905年(明治38年11月1日 )- 対馬丸が就航し毎日運航となる。
- 1906年(明治39年12月1日)- 鉄道国有法によって国有化され、鉄道院の運営となる。
- 1910年(明治43年) -韓国併合 に伴い、国内航路扱いになる。
- 1943年1(昭和18年7月15日)- 下関港の容量不足と輸送力の増強の目的から、博多 - 釜山間に「博釜連絡船」新設。
- 1943年(昭和18年10月5日未明) - 関釜連絡船の崑崙丸がアメリカ海軍の潜水艦わふーの魚雷直撃を受け沈没。
- 死者行方不明者583人。以後、夜間航行が自粛される。
- 1945年(昭和20年6月頃 ) -船舶の空襲による被災と対馬海峡の封鎖により事実上消滅。
パンフレットの表紙でしょうか?
戦後
1946年3月に金剛丸の引揚作業が着手され、同年7月に引き揚げられる。
1950年 7月、朝鮮戦争のためアメリカ軍の傭船となる。
1951年10月26日、釜山から佐世保港へ向かう途中、
ルース台風のため五島列島宇久島沖で座礁し、傭船解除となる。
離礁不可能のため、1953年10月に売却され、現地で解体された。
崑崙丸が1943年5月未明アメリカ海軍潜水艦ワフーの魚雷直撃を受け沈没、死者行方不明者583人
を出したが、金剛丸はその前の便として運航されていた。
敗戦後は、
大韓民国との間に国交がなく、同区間の航路は存在しない状態が続いていたが、
1965年に国交成立し、
1970年の(昭和45年)6月、
25年ぶりの日韓定期航路として関釜フェリーが就航した。
歴史観によれば韓国とはついこの間国交が成立したばかりです。
これからが成熟した関係が就航する連絡船の航路になる時でしょう。
長々とここまでのお付き合い本当に有難うございました。
ゆっくりと休んでください。
じゃね、また会いましょう。