3月に石川日独協会が主催する講演会でオイゲン・へリゲルを取り上げられる予定になっています。
そのこともあって、岩波文庫から出版されている彼の講演録『日本の弓術』を読み直しています。
最初に読んだのが、学生時代だったように思います。
比較文学ゼミでは、ドイツ神秘主義思想を学んでいる先生や先輩たちに囲まれ、
マイスター・エックハルトを皮切りに、卒業論文で取り上げたアンゲルス・シレジウスまで、
翻訳されたものを中心に買ったり借りたりしながら読んでいました。
『日本の弓術』の中にもマイスター・エックハルトが登場します。
恐らくその関係で読んだのではないかと記憶を辿っています。
オリンピックなどでも、科学を取り入れたスポーツが発展し、日々刻々と技術は精度を増しています。
また、精神面においても、心理学理論などを用いたメンタルトレーニングが重要視されています。
しかし、『日本の弓術』の内容は、その真逆を突き進んでいます。
「的をあてることを考えるな、ただ弓を引き矢が離れるのを待って射あてるのだ」
「一旦弓を引き絞れば、沈思の状態は決定的となり、引き絞っていればいるほど沈思は深められ、
その後の一切は意識の彼方で行なわれる。射手がは矢が放たれた瞬間に初めて、ふたたび、
しかも漸次にではなく不意に、我に復る。忽然として、見慣れた周囲が、世界が、ふたたびそこに在る。
自分が抜けだした世界へ、ふたたび投げ返された自分を見る。自分のからだを貫き、飛んで行く
矢の中に移ってはたらきつづけるある力によって、投げ返されたのである」
ここまで来ると、弓を引き矢を放つ先は、もはや的ではなく、自分自身だということになります。
教育という仕事にあてはめると、ある意味、教育が子どもたちに対して行っている行為であるうちは、
まだまだ的をねらっているに過ぎないということができるでしょう。
もちろん、どう教えるか、どう伝えることが効果的なのか、方法論を熟考することも重要です。
しかし、教育の根本は自分自身を射抜くこと、すなわち徹底的な自己吟味自己研鑽であり、自己練磨である。
分からなかったことが分かったと体得することができて、初めて人にものを教えることができる。
もともと成績がよく、得意な科目だったからその教科の教諭になった人は、
分からない子どもの分からなさが分からない。
なぜ分からないのかと問う時、そこには自分がいないことにも気づかない。
むしろ、分からず、もがき、葛藤しながら、苦しんでようやく分かった、いやでももっと分かりたい、
そう思い続けられる人がその教科の「教師」になれるのではないでしょうか。
そのこともあって、岩波文庫から出版されている彼の講演録『日本の弓術』を読み直しています。
最初に読んだのが、学生時代だったように思います。
比較文学ゼミでは、ドイツ神秘主義思想を学んでいる先生や先輩たちに囲まれ、
マイスター・エックハルトを皮切りに、卒業論文で取り上げたアンゲルス・シレジウスまで、
翻訳されたものを中心に買ったり借りたりしながら読んでいました。
『日本の弓術』の中にもマイスター・エックハルトが登場します。
恐らくその関係で読んだのではないかと記憶を辿っています。
オリンピックなどでも、科学を取り入れたスポーツが発展し、日々刻々と技術は精度を増しています。
また、精神面においても、心理学理論などを用いたメンタルトレーニングが重要視されています。
しかし、『日本の弓術』の内容は、その真逆を突き進んでいます。
「的をあてることを考えるな、ただ弓を引き矢が離れるのを待って射あてるのだ」
「一旦弓を引き絞れば、沈思の状態は決定的となり、引き絞っていればいるほど沈思は深められ、
その後の一切は意識の彼方で行なわれる。射手がは矢が放たれた瞬間に初めて、ふたたび、
しかも漸次にではなく不意に、我に復る。忽然として、見慣れた周囲が、世界が、ふたたびそこに在る。
自分が抜けだした世界へ、ふたたび投げ返された自分を見る。自分のからだを貫き、飛んで行く
矢の中に移ってはたらきつづけるある力によって、投げ返されたのである」
ここまで来ると、弓を引き矢を放つ先は、もはや的ではなく、自分自身だということになります。
教育という仕事にあてはめると、ある意味、教育が子どもたちに対して行っている行為であるうちは、
まだまだ的をねらっているに過ぎないということができるでしょう。
もちろん、どう教えるか、どう伝えることが効果的なのか、方法論を熟考することも重要です。
しかし、教育の根本は自分自身を射抜くこと、すなわち徹底的な自己吟味自己研鑽であり、自己練磨である。
分からなかったことが分かったと体得することができて、初めて人にものを教えることができる。
もともと成績がよく、得意な科目だったからその教科の教諭になった人は、
分からない子どもの分からなさが分からない。
なぜ分からないのかと問う時、そこには自分がいないことにも気づかない。
むしろ、分からず、もがき、葛藤しながら、苦しんでようやく分かった、いやでももっと分かりたい、
そう思い続けられる人がその教科の「教師」になれるのではないでしょうか。
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