「郷土の文学を楽しむ」の講義において、受講生が作品を輪読して2回目になります。
私は適当な長さで「はい」と言えばすぐさま次の学生がその次の文から読み始めます。
私は気まぐれなので、長さは適当です。
ですから、学生はどこで区切ってよいか分からないという迷いと緊張感を持って読みます。
この読み方では、確かに内容そのものをしっかりと味わうことはできません。
しかし、読むことに対して集中しなければ作品世界に入ることができません。
始めて2回目にも関わらず、学生はとてもスラスラ読むことができるようになってきました。
授業後の感想にも、「先生から『随分良くなったね』と言われて正直うれしかった」、
「声に出して読むと『よく分かる』ことが分かった」といった内容のものがありました。
大学生にもなると、作品を声に出して読むということがなくなってきます。
私の学生時代もそうでした。講義はほとんど先生が一方的に話すものだと思っていました。
輪読を取り入れる前は、伝えたい情報が不十分になってしまうという危惧がありました。
しかし、「こういう参加型の授業は好きです」という感想を聞くと、しっかりと時間を取って
全員が参加しているのだという実感を持たせる授業というものがいかに大事かということが
分かります。
その場に自分がいて、何らかの役割を果たしている。そういう実感が持てない社会だからこそ
こうした授業が必要になるのだと実感しています。
私は適当な長さで「はい」と言えばすぐさま次の学生がその次の文から読み始めます。
私は気まぐれなので、長さは適当です。
ですから、学生はどこで区切ってよいか分からないという迷いと緊張感を持って読みます。
この読み方では、確かに内容そのものをしっかりと味わうことはできません。
しかし、読むことに対して集中しなければ作品世界に入ることができません。
始めて2回目にも関わらず、学生はとてもスラスラ読むことができるようになってきました。
授業後の感想にも、「先生から『随分良くなったね』と言われて正直うれしかった」、
「声に出して読むと『よく分かる』ことが分かった」といった内容のものがありました。
大学生にもなると、作品を声に出して読むということがなくなってきます。
私の学生時代もそうでした。講義はほとんど先生が一方的に話すものだと思っていました。
輪読を取り入れる前は、伝えたい情報が不十分になってしまうという危惧がありました。
しかし、「こういう参加型の授業は好きです」という感想を聞くと、しっかりと時間を取って
全員が参加しているのだという実感を持たせる授業というものがいかに大事かということが
分かります。
その場に自分がいて、何らかの役割を果たしている。そういう実感が持てない社会だからこそ
こうした授業が必要になるのだと実感しています。
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