本来は昨日のうちに書ききっておくべきネタでしたが、今日になってしまいました…。
島野修さん死去…球団マスコット演じ18年(日刊スポーツ) - goo ニュース
島野修 特集
1990 さよならブレービー
初めてプロ野球を見たのが、1986年3月、西宮球場の阪急-巨人のオープン戦。
当時は宝塚に住んでいたこともあって、何度か友達と連れ立って、内野席に足を運んだっけなあ…。
プロ野球でおいらが生まれて初めてサインをもらったのが、通路に腰掛けていたブレービー。
子供が色紙なんて持っているわけがないから、ノートの裏表紙の白い部分を差し出してサインをお願いしたら、今で言うアテンドのおっちゃんが、「ノートの中の紙やなくてもええの?」というから、「いいです」とお願いして書いてくれたんだっけ。ノートの紙より裏表紙を選んだ理由はただひとつ、裏表紙だから、そっちの方が紙に厚みがあるし、部屋に貼るときだってしわにならない…という、ガキにはガキなりに考えた理由があったのさ(笑)。
ブレービーにサインをもらったことは、25年近く経った今も、昨日のように覚えています。
初めてプロ野球選手からサインをもらったのがシコースキー。
初めて球団マスコットからサインをもらったのがブレービー。
どちらの時も、かなり克明に覚えています。
シコースキーにサインをもらったとき、一部始終を見ていたたこすけさんに「お前、子供みたいだぞ」といいながら笑ってくれたのだけれど、おそらくブレービーの時も、同じような笑顔だったのかな。
あの時、俺はどんな顔をしてブレ-ビーに近づいていたのかな?
冒頭の写真は、1986年11月に開催された、西宮球場での阪急ブレーブスファン感謝デーでの一こま。
写真は残っていたけれど、ブレ-ビーから貰ったサインは、引っ越しのどさくさに紛れて、どっかに行っちゃったみたい…。゜(゜´Д`゜)゜。
この写真、今でも大事にしてますよ。
島野さん、ごゆっくりお休み下さい…。
島野修さんのご冥福を、心よりお祈り申し上げます…。
島野修さん死去…球団マスコット演じ18年(日刊スポーツ) - goo ニュース
巨人、阪急の元投手で、現役引退後は阪急とオリックスの球団マスコットを演じて人気を博した島野修(しまの・おさむ)氏が8日午前、脳出血のため兵庫・西宮市内の病院で死去したことが11日、分かった。59歳だった。葬儀・告別式は遺族の意向により、10日に近親者のみで執り行われた。
島野氏は神奈川県出身で、武相高から68年のドラフト1位で巨人に入団した。同期入団組には阪神星野仙一シニアディレクター(SD)、山本浩二元広島監督、阪神田淵幸一OB会長らがいた。巨人指名の希望がかなわなかった星野氏が、名前を読み違えたのではないかと語ったというエピソードがあった。
巨人では1勝に終わり、76年に阪急(現オリックス)へ移籍、78年に引退した。引退後は81年から18年間阪急のマスコット人形ブレービー、オリックスのネッピーを演じた。77年、ハワイ優勝旅行でパンツ1枚になって山本リンダの「こまっちゃうな」を振り付きで歌ったサービス精神が買われ、縫いぐるみを着ることになった。98年10月3日、グリーンスタジアム神戸(現スカイマークスタジアム)での近鉄戦で“現役”を引退。マスコットとして通算1175試合に連続出場。その後は04年3月まで球団職員として野球振興にあたった。
当時、球団の営業担当として一緒に球場を盛り上げた大阪シティドームの花木聡事業本部部長(47)は「いつも汗びっしょりで、控室でいつもヤカンの冷えたお茶を飲んでいた。素の時に食事で隣にいた子供が(阪急マスコットの)ブレービーに会いに来たと話しているのを聞き、うれしそうにしていたのが印象的でした」と話した。通算成績は24試合登板、57回1/3で1勝4敗、防御率5・05だった。
島野修 特集
1990 さよならブレービー
初めてプロ野球を見たのが、1986年3月、西宮球場の阪急-巨人のオープン戦。
当時は宝塚に住んでいたこともあって、何度か友達と連れ立って、内野席に足を運んだっけなあ…。
プロ野球でおいらが生まれて初めてサインをもらったのが、通路に腰掛けていたブレービー。
子供が色紙なんて持っているわけがないから、ノートの裏表紙の白い部分を差し出してサインをお願いしたら、今で言うアテンドのおっちゃんが、「ノートの中の紙やなくてもええの?」というから、「いいです」とお願いして書いてくれたんだっけ。ノートの紙より裏表紙を選んだ理由はただひとつ、裏表紙だから、そっちの方が紙に厚みがあるし、部屋に貼るときだってしわにならない…という、ガキにはガキなりに考えた理由があったのさ(笑)。
ブレービーにサインをもらったことは、25年近く経った今も、昨日のように覚えています。
初めてプロ野球選手からサインをもらったのがシコースキー。
初めて球団マスコットからサインをもらったのがブレービー。
どちらの時も、かなり克明に覚えています。
シコースキーにサインをもらったとき、一部始終を見ていたたこすけさんに「お前、子供みたいだぞ」といいながら笑ってくれたのだけれど、おそらくブレービーの時も、同じような笑顔だったのかな。
あの時、俺はどんな顔をしてブレ-ビーに近づいていたのかな?
冒頭の写真は、1986年11月に開催された、西宮球場での阪急ブレーブスファン感謝デーでの一こま。
写真は残っていたけれど、ブレ-ビーから貰ったサインは、引っ越しのどさくさに紛れて、どっかに行っちゃったみたい…。゜(゜´Д`゜)゜。
この写真、今でも大事にしてますよ。
島野さん、ごゆっくりお休み下さい…。
島野修さんのご冥福を、心よりお祈り申し上げます…。
で、冒頭の写真に…(≧∀≦){ハァ~ハァ~。
懐かしいなぁ~‥ブレービーに西宮球場(*^o^*)。
ロッテファンでありながらも、ブレービーに会うのも楽しみで西宮球場へ足を運んだモノです(≧▽≦)ゞ。
当時、球団マスコットが毎試合~場内でパフォーマンスをして~ファンサービスをしてる球団は、ここ‥阪急ブレーブスぐらいだったんじゃないですかね。
あのブレービーの軽やかなステップでダンスをしてる姿と来たら~もう!。‥今も尚!私の脳裏に焼き付いてます。
あの時代は良かったなぁ~(*^-^)b。
「関西パ・リーグ3球団時代」⇒月の約半分位は、関西でロッテが観れてましたから‥。
島野さん‥良い思い出をありがとう〓。
安らかに‥お休み下さい。
狭い通路、内野席で響かせていたブラバン隊のような応援団のトランペットとトロンボーン、ボックス席の端っこにちょこんと座っていたブレ-ビー…。
幼き日の思い出が、脳裏を駆け巡ります…。
ブレ-ビーとレオぐらいじゃなかったでしょうか、球団マスコットとして存在したのは…。
島野さんのご冥福をお祈り致します…。
テレビや動画、例の児童書の中でしか拝見していないのですが、今の愉快な仲間達の礎を築かれた偉大な人だったんだなぁと。
気が付けば、根っこの鴎はちゃんとあるものの、各チームの球団マスコットの活躍を軸に撮る人になってしまったわけなのですが、島野さんの偉業を心に残しながら撮ったり、その様子を勝手に伝えて行ければ、なんて思ったりしています。
島野さん、本当に本当にお疲れ様でした。
貼り付けた動画にもありますが、当時のマスコットは、試合中は通路にちょこんと座っているのがデフォだったんですよねえ…。
マー君みたいに、スタジアム中を練り歩くスタイルは、この頃にはまだありませんでしたから。
礎のブレ-ビーから、いまや球界のマスコットは百花繚乱、いつの間にか謎のキャラクターに早坂がドロップキックを加えるwところまでになりましたからねえ…。
マスコットのサインから、一人でも多くの野球少年、或いは野球ファンが生まれてくれるといいですね…。