ありゃあ…。なんともまた早い死です…。
赤ヘル2番・三村さん死去…「早過ぎるよ」山本さん(読売新聞) - goo ニュース
楽天の編成部長を担当されていたのは聞いていたけれど、体調を崩されていたのは存じ上げず…。
10年くらい前まで広島の監督をされていたのだから、ずいぶんとお若いのに…と思ったのも道理で、61歳じゃ、今の世の中まだまだ若いですからねえ…。
あれは1996年の夏頃だったと思ったけれど、専門学校で広島出身の奴がいて、連れられて東京ドームの巨人広島戦のレフトスタンドに連れて行って貰ったのは、三村政権下の広島だったっけ。
前田も江藤も金本も野村もいて、正捕手は鯉女房西山。
先発投手は誰だったかなあ…。
大野だったら覚えているはずだと思うけれど、紀藤とか加藤だったのかな…?
ヤマケンじゃなかったと思うが、誰だったっけなあ…?
応援団から歌詞カードを貰ったはずなのだけれど、どっかいっちった。
かように、当時の試合の先発が誰だったかも覚えていないが、広島出身の彼が、巨人の選手がヒットを打つ度に「おう○○、お前夜道気をつけろ」と、いちいち広島弁で物騒なヤジを飛ばしていたのは覚えている(笑)。
当時の先発は、多分、この中のどれか(笑)。
試合は勝って、宮島さんを水道橋駅まで歌いながら歩いたり(←迷惑)、いつの間にか某ベッドメーカーの人に名刺を渡されて「就職は任せとけ」とか言われたりしたのは覚えている。専門卒でも採ってもらえたかどうかは、知らん。
当時はようやくマリーンズに新たに目覚め始めた頃で、おそらくマリーンズに目覚めていなかったら、その友達から、「広島を見に行こう」と声がかかることはなかったはずだ。事実そいつは、別の友人とは何度も何度も野球を共にしていて、東京ドームで、別の友人から「お前が野球を見るなんて思わなかったよ」と漏らしていたくらいだったから。
元々、専門学校時代は1年2年と、当時付き合っていた相方との交際に全力投球で、野球は全く興味を失っていた頃だったから、学校でも野球の話をすることはほとんどなく、むしろ競馬とプロレスが話の中心になっていた。
その中でも、全く野球を見に行かなかったかといえば決してそうではなく、先輩から貰ったチケットで、1994年の夏頃の東京ドームに、日ハム対オリックス(ブルーウェーブ)の試合を見に行ったら、オリックスの1番のイチローとかいう選手の打率が4割2分とかを指していて、さすがのおいらも打率の高さに舌を巻いたのを覚えている。そんな話を翌日に学校でしたら、阪神ファンの友人が「イチローっていただろ。あいつはマジで凄いよ」と言われ、改めてすげえ選手だな…と思ったのは、もう15年も前の話なのか…。
翌1995年は、一度は学校をサボってスロットで勝ったカネを握りしめ、これまた東京ドームの「ハム近」を見に行ったこともある。外野席で幸雄ジャンプをやらされた(笑)。
でも、せめてその頃野球を見ていたのはそれだけで、相方が勤めていた会社が千葉マリンの年間シートを持っていたようで、「行ってみる?」と誘われたことがあるのだけれど、一言目に「弱いから見に行かない」って言い放ったっけ(笑)。その時、大瀧詠一の「恋のナックルボール」よろしくデートに出かけていたら、もしかしたらもう少しファン歴が長くなっていたかも知れないし、もしかしたら逆に「思い出の場所」として、足が遠のいていたかも知れない。
おっと、話がそれた。
監督当時、優勝は出来なかったものの、5年間で4度のAクラスという実績と手腕は、決して色あせることないでしょう。
カープは、三村さんの時に花開いた野村謙二郎が指揮を執る。
三村さんが花を咲かせた野村謙二郎。
そして、野村新監督は、カープを花開かせることが出来るだろうか。
三村さんのご冥福を、お祈り致します。
赤ヘル2番・三村さん死去…「早過ぎるよ」山本さん(読売新聞) - goo ニュース
プロ野球・元広島監督で楽天の編成部長を務めていた三村敏之(みむら・としゆき)氏が3日午前10時5分、心不全のため仙台市内の病院で死去した。61歳だった。告別式は7日午後0時30分、広島市安佐南区長束2の4の9玉泉院長束会館。喪主は妻、洋子さん。
三村氏は広島県出身。1967年に広島商高から広島入団。右打ちの名手で2番打者に定着。山本浩二、衣笠祥雄らと「赤ヘル旋風」を巻き起こし、75年のリーグ初優勝に貢献。黄金時代の主力として、79、80年には日本一に輝いた。巧打、堅守の遊撃手としてベストナインを3度獲得。83年に現役引退。通算1567試合で149本塁打、打率2割5分5厘。引退後、94年から広島監督を5季務めた。野村謙二郎、金本知憲らの育成に尽力し、Aクラス入りを4度果たした。2007年に楽天の球団編成部長に就任したが、今年5月に肝臓の手術を受け、約3か月間療養していた。
山本浩二・元広島監督「弱い時からずっと一緒にやってきて、選手としても、スタッフとしても長いつきあいだった。現役時代から良きライバルで、お互いに負けまいと思ってやってきた。早過ぎるよ。残念だし、さみしいね」
楽天の編成部長を担当されていたのは聞いていたけれど、体調を崩されていたのは存じ上げず…。
10年くらい前まで広島の監督をされていたのだから、ずいぶんとお若いのに…と思ったのも道理で、61歳じゃ、今の世の中まだまだ若いですからねえ…。
あれは1996年の夏頃だったと思ったけれど、専門学校で広島出身の奴がいて、連れられて東京ドームの巨人広島戦のレフトスタンドに連れて行って貰ったのは、三村政権下の広島だったっけ。
前田も江藤も金本も野村もいて、正捕手は鯉女房西山。
先発投手は誰だったかなあ…。
大野だったら覚えているはずだと思うけれど、紀藤とか加藤だったのかな…?
ヤマケンじゃなかったと思うが、誰だったっけなあ…?
応援団から歌詞カードを貰ったはずなのだけれど、どっかいっちった。
かように、当時の試合の先発が誰だったかも覚えていないが、広島出身の彼が、巨人の選手がヒットを打つ度に「おう○○、お前夜道気をつけろ」と、いちいち広島弁で物騒なヤジを飛ばしていたのは覚えている(笑)。
当時の先発は、多分、この中のどれか(笑)。
試合は勝って、宮島さんを水道橋駅まで歌いながら歩いたり(←迷惑)、いつの間にか某ベッドメーカーの人に名刺を渡されて「就職は任せとけ」とか言われたりしたのは覚えている。専門卒でも採ってもらえたかどうかは、知らん。
当時はようやくマリーンズに新たに目覚め始めた頃で、おそらくマリーンズに目覚めていなかったら、その友達から、「広島を見に行こう」と声がかかることはなかったはずだ。事実そいつは、別の友人とは何度も何度も野球を共にしていて、東京ドームで、別の友人から「お前が野球を見るなんて思わなかったよ」と漏らしていたくらいだったから。
元々、専門学校時代は1年2年と、当時付き合っていた相方との交際に全力投球で、野球は全く興味を失っていた頃だったから、学校でも野球の話をすることはほとんどなく、むしろ競馬とプロレスが話の中心になっていた。
その中でも、全く野球を見に行かなかったかといえば決してそうではなく、先輩から貰ったチケットで、1994年の夏頃の東京ドームに、日ハム対オリックス(ブルーウェーブ)の試合を見に行ったら、オリックスの1番のイチローとかいう選手の打率が4割2分とかを指していて、さすがのおいらも打率の高さに舌を巻いたのを覚えている。そんな話を翌日に学校でしたら、阪神ファンの友人が「イチローっていただろ。あいつはマジで凄いよ」と言われ、改めてすげえ選手だな…と思ったのは、もう15年も前の話なのか…。
翌1995年は、一度は
でも、せめてその頃野球を見ていたのはそれだけで、相方が勤めていた会社が千葉マリンの年間シートを持っていたようで、「行ってみる?」と誘われたことがあるのだけれど、一言目に「弱いから見に行かない」って言い放ったっけ(笑)。その時、大瀧詠一の「恋のナックルボール」よろしくデートに出かけていたら、もしかしたらもう少しファン歴が長くなっていたかも知れないし、もしかしたら逆に「思い出の場所」として、足が遠のいていたかも知れない。
おっと、話がそれた。
監督当時、優勝は出来なかったものの、5年間で4度のAクラスという実績と手腕は、決して色あせることないでしょう。
カープは、三村さんの時に花開いた野村謙二郎が指揮を執る。
三村さんが花を咲かせた野村謙二郎。
そして、野村新監督は、カープを花開かせることが出来るだろうか。
三村さんのご冥福を、お祈り致します。
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